聞通寺法語カレンダー
4月の言葉
「今から始まる
新しい『きょう』1日」
4月のスタートにふさわしい、すがすがしい言葉です。
孫が新一年生になりました。「小学校は、ワクワクでしかない。」と目を輝かせて、入学式を心待ちにしています。彼女にとっては、4月8日が新しいスタートの『きょう』なのでしょう。
私達にとっては、昨日の続きの今日一日です。あまりワクワクも無く、迎えてしまいがちです。でも、昨日の続きの今日は、あたりまえにやってくるのでしょうか?
阪神大震災、東日本大震災、近いものでは能登半島地震等の災害。メディアを通して、私達は、昨日の今日があたりまえでは無いことを、たくさん見てきました。他にも交通事故、突然の病気等々。新しい『きょう』は、誰にでもやってくるものでは無いのです。でも、そのことを日々の生活の中で簡単に忘れてしまいます。
大きな流れの中で、奇跡のように生かされている私達です。一日一日を大切に迎えることを忘れてはならないと、孫のスタートとともに思い返す私です。お陰様で、目覚めさせてもらえた毎日が、新しい『きょう』です。
坊守
3月の言葉
「人間は大きくなるだけでは
成長とはいえない」
息子や孫達に、「大きくなったね」と、気軽に声をかけます。考えてみると、それは背が伸びたこと??? それだけではない気持ちが裏にあるように思います。
調べてみると、成長とは「育って成熟すること」とあります。では、成熟した人間とは?? 「自分の気持ちや信念を表現する勇気と、相手の気持ちや信念を尊重する思いやりのバランスがとれている人のこと」とあります。
ちょっと難しいですが、要するに「自分も相手も大切にできる人になる」という事なのだと思います。
私の「大きくなったね」の言葉には、「大きく成長したね」という意味が、多分に込められていたのだと気付きました。
これからも、「もっともっと大きくなれ」と、身も心も両方の意味を込めて、応援していきたいと思っています。
坊守
2月の言葉
「そむいているときも
み手のまんなか」
私は、50歳を過ぎてから、リウマチという病気を抱えることになりました。大きな関節が潰れて、歩けなくなります。そのため、左足の膝と股関節に、人工関節を入れる手術を2回行いました。医学の進歩は凄いもので、その度、歩けるようになります。でも、しばらくすると、又どこかの関節が悪くなります。今は、右足の膝があやしいです。これから先の事を考えると、暗い気持ちになります。
『まだまだ、やりたい事、行きたい所、たくさんあるのに…。どうして私がこんな病気になったんだろう。まじめに生活しているのに…。元気な人が羨ましい。』
と、仏様を恨みたい気持ちになります。
でも、しばらく落ち込んでいると、
『いやいや、私は何を言っているんだろう。もっとひどい病気で苦しんでいる人は、たくさんいるのに…。考えてみれば、子供や孫達、みんな元気で生活させてもらえている。悪いところは、私が引き受けたと思えば、こんなありがたいことは、無いやん!』
という考えが、いつも湧いてきます。
この考えに、引き戻してくださるのが、仏様の「み手のまんなか」にいるということなんだろうと、私はいつも思います。ありがたいことです。
昔は、お寺に生まれたこと、お寺に嫁いだことが、重荷で嫌だったけど、今は、この御縁を、心からありがたく、感謝しております。
坊守
1月の言葉
「正直者からは
正直者の光が」
東井先生が、小学校を退職される時に、子どもたちに書き残された詩があります。そのまま紹介させていただきます。
自分は自分の主人公
自分は自分の主人公
世界でただ一人の自分を創っていく責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんかおこすまい
自分を自分でダメにするなんて
バカげたことってないからな
つらくたって がんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は自分を創る 責任者なんだからな
しっかり者からはしっかり者の光
まじめな人からはまじめな人の光
正直者からは正直者の光
やんちゃ者からはやんちゃ者しか持たないやんちゃ者の光
男からは男の光
女からは女の光
おじいちゃんからはおじいちゃんの光
おばあちゃんからはおばあちゃんの光
おとうさんからは おとうさんの光
おかあさんからは おかあさんの光
若者からは若者しかもたない若者の光
未来をつくる子どもからは 夢と希望の子どもの光
ひとりの喜びはみんなでわけて大きい喜びにして喜びあい
ひとりの悲しみはみんなでわけて小さくして背負いあい
いばったり いばられたり
いじめたり いじめられたりする関係を追っぱらい
みんな仲良く
ひとり残らず
存分に光を放ちあって生きられるような
光いっぱいの地区 光いっぱいの町を
つくろうじゃないか
だって
自分の地区 自分の町だもんな
自分はその主人公 責任者なんだからな。
力強い詩です。
自分は自分を創る責任者だということ、再確認したいと思います。
自分は、どのような光を放ちたいかということ、もう一度考えたいです。
坊守
12月の言葉
「人間に屑はない
人生に無駄はない」
私事ですが、「人生に無駄はない」という言葉から思い出される出来事があります。息子が小学5年生の時に「さだまさし」のコンサートに一緒に行きました。一緒に行ったというよりも、私が行きたかったので、無理に連れて行ったというのが正直なところです。息子は最初から最後まで不機嫌でブツブツ言ってました。そして終わった後に、「さだまさしなんか知らんし、こんな無駄な時間無いわ!」て言ったんです。カチンと来た私は、「人生に無駄な時間なんてあれへん。これも何かのあんたの肥やしになるんやから!」と、分かったような事を言って、すごい剣幕で説教しました。フェスティバルホールの前での話です。あぁ~恥ずかしい。私の心の中はと言うと、「無理に連れてきた後ろめたさ」と「彼のしつこさへの腹立ち」が相まって出た言葉だったと思います。
息子は、大人になった今でも「さだまさし」が出てくると、恨みがましく、でも笑いながらこの一件を話します。彼の頭の中では「さだまさし」=「人生に無駄はない」になっているのです。そう考えると、彼にとっては、決して無駄な時間では無かったのではないでしょうか。
小学校の教師である息子は、教室でも「人生に無駄はない」なんて偉そうに言ってそうです。
それぞれ無駄なんて無い人生を一生懸命生きている人間です。人間に屑なんてあるはずがないと、私は思います。
坊守
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今月の言葉
「小さな勇気でいいから
わたしはそれがほしい」
東井先生の詩を全文紹介させていただきます。
人生の大嵐がやってきたとき
それがへっちゃらでのりこえられるような
大きな勇気もほしいにはほしいが
わたしは 小さな勇気こそほしい
わたしのたいせつな仕事を後回しにさせ
忘れさせようとする 小さい悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画に化けて
わたしを誘惑するとき
すぐそれがやっつけられるくらいの
小さい勇気でいいから
わたしは それがほしい
明日があるじゃないか 明日やればいいじゃないか
今夜はもう寝ろよ
机の下からささやきかける小さい悪魔を
すぐ やっつけてしまえるくらいの
小さい勇気でいいから
それが わたしは たくさんほしい
それに そういう小さい勇気を軽べつしていては
いざというときの大きい勇気も
つかめないのではないだろうか
とてもわかりやすい詩です。私には、ぴったりの詩です。
大きい勇気につながる小さい勇気。わたしもたくさん欲しいです。ちなみに、私の小さい悪魔は、美味しいスイーツに化けていると思われます。
坊守
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今月の言葉
「 ほんものは つづく
つづけると ほんものになる 」
中国のことわざに、
「十年偉大なり 二十年畏るべし 三十年歴史なる」
というものがあります。
つづけるということ、私の一番苦手なことです。日記とか、毎日掃除とか、ダイエットとか…。なかなか続きません。だからでしょうか、折りにふれ、私の頭の中によく出てきます。「三十年歴史なる」というところが一番好きです。
この地にお寺ができて1400年余り(霊松寺から聞通寺へと途中で変わります)。すごい年月です。その時々で、住職がおり、お世話くださる門徒さんがあり、山あり谷あり、皆の努力で続いてきた1400年。まさしく、聞通寺はほんものであると言えるのではないでしょうか。
皆の善意が社会に還元される行事をと始めた災害救援大根焚き。今年で4回目になります。歴史になるまではなかなかですが、今年もやります。ほんものになるまで続くことを願って!!あつあつの大根、ぜひ食べに来てください。
坊守
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今月の言葉
「こんなにおかげさまを
散らかしている私
すみません」
私は普段会社勤めをしています。
私事になってしまいますが、今年の4月以降同僚の退職等が重なり、投げ出してしまいたくなるような非常に忙しい毎日を過ごしています。
なぜ私だけが…
なぜ誰も助けてくれないんだ…
なんとかしてくれ…
と思う日も多々あります。
しかし、ふと立ち止まって考えてみると、自分が日常の中のしんどい部分しか見ていないことに気づく時があります。
私と同じように周りの方々も一生懸命業務に当たり、自分を助けてくれている部分もたくさんあることを思い出します。その時実際に「おかげさまで。」などと言ったりもします。
そのように忙しく仕事をしていると残業も増え、平日には家ではなかなか子供と話す機会がありません。起きる前に出ていき、寝てから帰ってくるパターンです。それでも、子どもたちは元気にすくすく育っていってくれています。
妻のおかげ、子供たち自身のおかげです。
さらによくよく考えると、今仕事が出来ているのも親が元気に産んで育ててくれたおかげです。
ふと立ち止まって考えてみるとおかげさまを散らかしている私でした。
8月はお盆もあります。
今ここに生きているのは、誰かの「おかげさま」ではないでしょうか。
一度考えてみてください。
長男 恵之
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「 「明日」は「明るい年」 」
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今月の言葉
2月の言葉について
今月の言葉
「拝まないときも
拝んで下さっている 阿弥陀さま」
1月の言葉について
「きょうは 今日という作品を
仕上げさせていただく日」
12月の言葉について
今月の言葉
「人間はみんな
すばらしい」
うちの息子は、前にも登場しましたが、小学生の頃、なかなかのやんちゃ者でした。いつも周りのみんなに謝ってばかりの私は、ちょっと子育てに疲れていました。
その息子には幼稚園の時からの友達T君がいました。彼はダウン症で「のびのび学級」に通っていました。そのT君、ある朝「学校に行こう」と息子を迎えに来てくれたのです。だいぶ遠回りになるので、私はびっくりしましたが、息子は普通に「お~。行こか」とか言って、出掛けていきました。
そのことを、後日ママ友に話すと「てっちゃん(息子のこと)は、T君にやさしいよ~」という言葉が何人からも返ってきました。私は救われた思いがしました。うれしかったです。
親にも見えない息子の良さを、T君はしっかりと見つけてくれていたんだと・・・。
ママ友もしっかりと見てくれていたんだと・・・。
どんな時でもかくれている、人間のすばらしさに気づく目を忘れないでおこうと思いました。
コロナ一色の一年間でした。
その中で懸命に頑張ってくださっている医療関係の方々、ワクチン開発に携わっている研究者の方々、本当に頭の下がる思いです。
又、自粛ながらも、愚痴を言いながらも、楽しみを見つけ、助け合って、たくましく生きている大多数の人たち。
「人間はみんなすばらしい!!」それに気付けた一年だったとも言えると思います。
来年はコロナが終息することを願っています。
坊守
11月の言葉について
「きづかなくても
大いなる親のひざの上」
「拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている」
「拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている
きづかなくても 大いなる親のひざの上」
10月の言葉について
「働きづめに働いている
心臓 ほらいまも」
9月の言葉について
「尊いものを仰ぐ
美しいものに感動」
8月の言葉について
「おとせばこわれるいのちだからこそ
このいのちが尊い」
次男
7月の言葉について
今月の言葉
「力をぬいたとたん
世界がひらける」
哲学者の出隆(いでたかし)さんが、「水泳」について次の様に書いておられます。
「水は、人間を浮かせるだけの浮力をもっている。しかるに、人間が溺れるというのは、心の重みで溺れるのである。だから、溺れた人というのは、『こんな所で…』と思われるほど浅い所で溺れている。結局、水の浮力に足をとられて慌ててしまい、その心の重みで溺れたのである。心を無にして、身も心も水に預ければ、自分の力を使わなくてもおのずから浮かぶ」
いつも私事で申し訳ないのですが、私の子育ての話です。
息子は、小さい時(?)それそれはやんちゃでした。
幼稚園、小学校と「いじめられた」「なぐられた」「物をこわした」…苦情が殺到しました。
両親の入院が重なり、ちょっと目を離したすきに、大変なことに…。
それに気付いた私。「これは、私が、私が何とかしなければ~」「もし、人に取り返しのつかない迷惑をかけるような事があれば、この子を殺して、私も死ぬ!!」くらいの気持ちでした。ありとあらゆる手段で息子に対抗しました。
しかる、なだめる、泣きおとし…。ランドセルの中にも「友達とけんかしない」とか「人の気持ちを考える」とか、付箋をたくさん貼ったりしていました。
学校から帰ってきたら、「今日はどうやった?」と聞くのが日課。待ち構えて、私がドキドキしていました。後日、息子から「けんかした日には家に入れず、家の周りをグルグル回ってから帰宅していた」と聞きました。
そうこうした戦いが何年も続いて、小学校5年生のある日、息子から「わかったから、もうええわ!!」と言われました。うれしかったです。その時、肩の力がふーっと抜けたのを覚えています。
すると、いろんなものが見えてきました。子供は、少しずつ確実に成長していました。
少し距離をおいて、子供の伸びる力を信じて、やかましく言うのをやめました。
言葉は選んで少なくです。
それからもちろんいろんなことがありましたが、今では市内の小学校に勤務。6年生の担任をしています。今でも5年生の頃のことを思い出して、「おれが人間になったころ」なんて言い方をしています。
熱い思いは必要だと思いますが、『私が』『私が』と思いすぎると、何にも見えなくなると思い知らされた、なつかしい思い出です。
「心の重みで溺れない様に!!」です。
息子の母
6月の言葉について
「家に
こころの灯を」
5月の言葉について
今月の言葉
「ゆるしてもらって
生きていた私」
この言葉は、東井先生が晩年に書かれた詩の題名です。紹介します。
この
醜いものが
大きなみ手の どまんなかに
生かされているということの事実に
目覚めさせていただこう
この私が
なお 現在ただいまも
祈られ
願われ
生かされ
おがまれ
赦されて ここにあるという事実に
目覚めさせていただこう
「老」いている いまも
み手のまんなか ということだ
いま み手のまんなかに 生かされているから
いつ壊れても
み手のまんなかなのだ
「老」も
み手のまんなかの「老」なのだ
「死」もまた
み手のまんなかの「死」なのだ
「死」のときの苦しみ「死にざま」は
私にも気にならないことはないが
どれもみんな
「み手のまんなか」のことなのだ
「み手のまんなか」で苦しみ
「死にともない」とわめきながら
「み手のまんなか」で
この世の終わりを迎えさせていただき
「み手のまんなか」に帰らせていただくばかりなのだ
事実
「死にざまなど 気にすることはないのだよ」
といってくださっているのだ
私も普段の生活の中でそのことを意識しているかというと、そんなことはありません。
仕事で嫌なことがあった翌日にまた起きて仕事に向かわなければならない時などは、正直逃げ出したいと思います。しかし、そんな自分でも阿弥陀如来のみ手の中で赦され、生かして頂いていると考えると、自分が逃げようとしていたことが小さく見え、少し気持ちが楽になる気がします。
新型コロナウイルスへの感染リスクや、それに伴う経済活動への影響など生活への懸念等で、心配事や苛立ちが増えてきている状況ですが、今自分がここに生かされているありがたさを意識しながら、生活したいと思います。
長男
4月の言葉について
今月の言葉
「光いっぱいのあさ
光いっぱいの世界」
この言葉は、晩年の東井先生の詩の題名です。紹介します。
きょうは十月三日
病院の窓の外は 光いっぱい
若いお父さんが
よちよち歩きの子どもの手をひいて
明けたばかりの 朝の
円山川の堤防を歩いている
一日のはじまりの
この爽快は朝の味を
ぜひ愛児にもという父親の愛情であろうか
あの子のお母さんも
きっと
家中の窓をみんなあけて
新しい空気を入れながら
朝の食事の用意をしているのだろう
光いっぱいの朝
わたしもやがて
光いっぱいの世界に帰らせていただける
きのうの残りの糸も切っていただく
腹の管もぬいていただく
いのちをいただいて
やがて
光いっぱいの世界に
帰らせていただく。
光いっぱいの世界とは、お浄土のことです。私たちはだれひとり
”もれることなく”、お浄土に救いとると阿弥陀如来が約束してくださっています。
その約束を思い出せば、目先の嫌なことにとらわれることなく、
ただの朝が、光いっぱいの朝に感じられる気がします。
次男
3月の言葉について
「生きているということは
長さの問題ではない」
2月の言葉について
「お念仏は 真実の親の お呼び声」
令和2年 1月の言葉について
「しあわせに 小さいのはない
大きいのばかり」
飛びあがるような最高のしあわせ
しみじみとした しあわせ
とろけそうなしあわせ
12月の言葉について
11月の言葉について
10月の言葉について
私たちの心の中に」