聞通寺法語カレンダー

4月の言葉


「今から始まる

 新しい『きょう』1日」


 4月のスタートにふさわしい、すがすがしい言葉です。

 孫が新一年生になりました。「小学校は、ワクワクでしかない。」と目を輝かせて、入学式を心待ちにしています。彼女にとっては、4月8日が新しいスタートの『きょう』なのでしょう。

 私達にとっては、昨日の続きの今日一日です。あまりワクワクも無く、迎えてしまいがちです。でも、昨日の続きの今日は、あたりまえにやってくるのでしょうか?

 阪神大震災、東日本大震災、近いものでは能登半島地震等の災害。メディアを通して、私達は、昨日の今日があたりまえでは無いことを、たくさん見てきました。他にも交通事故、突然の病気等々。新しい『きょう』は、誰にでもやってくるものでは無いのです。でも、そのことを日々の生活の中で簡単に忘れてしまいます。

 大きな流れの中で、奇跡のように生かされている私達です。一日一日を大切に迎えることを忘れてはならないと、孫のスタートとともに思い返す私です。お陰様で、目覚めさせてもらえた毎日が、新しい『きょう』です。

           坊守


3月の言葉


「人間は大きくなるだけでは

 成長とはいえない」


 息子や孫達に、「大きくなったね」と、気軽に声をかけます。考えてみると、それは背が伸びたこと??? それだけではない気持ちが裏にあるように思います。

 調べてみると、成長とは「育って成熟すること」とあります。では、成熟した人間とは?? 「自分の気持ちや信念を表現する勇気と、相手の気持ちや信念を尊重する思いやりのバランスがとれている人のこと」とあります。

ちょっと難しいですが、要するに「自分も相手も大切にできる人になる」という事なのだと思います。

 私の「大きくなったね」の言葉には、「大きく成長したね」という意味が、多分に込められていたのだと気付きました。

これからも、「もっともっと大きくなれ」と、身も心も両方の意味を込めて、応援していきたいと思っています。

         坊守


2月の言葉


「そむいているときも

 み手のまんなか」


 私は、50歳を過ぎてから、リウマチという病気を抱えることになりました。大きな関節が潰れて、歩けなくなります。そのため、左足の膝と股関節に、人工関節を入れる手術を2回行いました。医学の進歩は凄いもので、その度、歩けるようになります。でも、しばらくすると、又どこかの関節が悪くなります。今は、右足の膝があやしいです。これから先の事を考えると、暗い気持ちになります。

『まだまだ、やりたい事、行きたい所、たくさんあるのに…。どうして私がこんな病気になったんだろう。まじめに生活しているのに…。元気な人が羨ましい。』

と、仏様を恨みたい気持ちになります。

 

 でも、しばらく落ち込んでいると、

『いやいや、私は何を言っているんだろう。もっとひどい病気で苦しんでいる人は、たくさんいるのに…。考えてみれば、子供や孫達、みんな元気で生活させてもらえている。悪いところは、私が引き受けたと思えば、こんなありがたいことは、無いやん!』

という考えが、いつも湧いてきます。

 この考えに、引き戻してくださるのが、仏様の「み手のまんなか」にいるということなんだろうと、私はいつも思います。ありがたいことです。

 昔は、お寺に生まれたこと、お寺に嫁いだことが、重荷で嫌だったけど、今は、この御縁を、心からありがたく、感謝しております。

          坊守


1月の言葉


「正直者からは

   正直者の光が」

 

 東井先生が、小学校を退職される時に、子どもたちに書き残された詩があります。そのまま紹介させていただきます。


自分は自分の主人公

自分は自分の主人公

世界でただ一人の自分を創っていく責任者

少々つらいことがあったからといって

ヤケなんかおこすまい

自分を自分でダメにするなんて

バカげたことってないからな

つらくたって がんばろう

つらさをのりこえる

強い自分を 創っていこう

自分は自分を創る 責任者なんだからな

しっかり者からはしっかり者の光

まじめな人からはまじめな人の光

正直者からは正直者の光

やんちゃ者からはやんちゃ者しか持たないやんちゃ者の光

男からは男の光

女からは女の光

おじいちゃんからはおじいちゃんの光

おばあちゃんからはおばあちゃんの光

おとうさんからは おとうさんの光

おかあさんからは おかあさんの光

若者からは若者しかもたない若者の光

未来をつくる子どもからは 夢と希望の子どもの光

ひとりの喜びはみんなでわけて大きい喜びにして喜びあい

ひとりの悲しみはみんなでわけて小さくして背負いあい

いばったり いばられたり

いじめたり いじめられたりする関係を追っぱらい

みんな仲良く

ひとり残らず

存分に光を放ちあって生きられるような

光いっぱいの地区 光いっぱいの町を

つくろうじゃないか

だって

自分の地区 自分の町だもんな

自分はその主人公 責任者なんだからな。


 力強い詩です。

自分は自分を創る責任者だということ、再確認したいと思います。

自分は、どのような光を放ちたいかということ、もう一度考えたいです。


           坊守


12月の言葉


「人間に屑はない

  人生に無駄はない」


 私事ですが、「人生に無駄はない」という言葉から思い出される出来事があります。息子が小学5年生の時に「さだまさし」のコンサートに一緒に行きました。一緒に行ったというよりも、私が行きたかったので、無理に連れて行ったというのが正直なところです。息子は最初から最後まで不機嫌でブツブツ言ってました。そして終わった後に、「さだまさしなんか知らんし、こんな無駄な時間無いわ!」て言ったんです。カチンと来た私は、「人生に無駄な時間なんてあれへん。これも何かのあんたの肥やしになるんやから!」と、分かったような事を言って、すごい剣幕で説教しました。フェスティバルホールの前での話です。あぁ~恥ずかしい。私の心の中はと言うと、「無理に連れてきた後ろめたさ」と「彼のしつこさへの腹立ち」が相まって出た言葉だったと思います。

 息子は、大人になった今でも「さだまさし」が出てくると、恨みがましく、でも笑いながらこの一件を話します。彼の頭の中では「さだまさし」=「人生に無駄はない」になっているのです。そう考えると、彼にとっては、決して無駄な時間では無かったのではないでしょうか。

 小学校の教師である息子は、教室でも「人生に無駄はない」なんて偉そうに言ってそうです。


 それぞれ無駄なんて無い人生を一生懸命生きている人間です。人間に屑なんてあるはずがないと、私は思います。 

  

            坊守


11月の言葉


「 お米のいのち
   心から拝んでいただく 」

 この言葉の元になった東井先生の詩を紹介させていただきます。

数えきれないほどのお米の一粒々々が
一粒々々のかけがえのないいのちをひっさげて いま この茶碗の中に
わたしのために
怠けているわたしの胃袋に目を覚まさせるために山椒が
山椒のいのちをひっさげて
わたしのために梅干しもその横に
わたしのために……
白菜の漬物が
白菜のいのちをひっさげて
万点の味をもって
わたしのために…。
もったいなすぎる
もったいなすぎる

 実りの秋。たくさんのいのちをいただいて、生きさせていただいている私達。しっかりと生きなければと思います。

10月の言葉


「 まことの「いのち」に
    めざめさせていただく 」

 今月は、とても難しい言葉です。私ではとても解説などできないので、東井先生が書かれた文章を、そのまま紹介させていただきます。

 船を造るのに一番大切でむずかしいことは、転覆しそうになったとき、元に戻る力(復元力)をどうやってつくるかということだと聞いています。
 人間も、いつ転覆するかわからない危険なものをいっぱい潜ませた存在です。こういう私たちを、まことのいのちに目ざめさせずにはおかないというのがみ仏さまの願いです。これに目ざめさせていただくとき、自殺を考えざるを得ないような状態の中でも、生きることのただごとでないすばらしさと、底深いよろこびを恵んでくださいます。邪悪のとりこになって自己を見失おうとしたとき、パッと私の邪悪を照らして、「まあはずかしい!」とほんとうの私に立ち帰らせてくださいます。み仏さまが、私の復元力となって、私を破滅からすくってくださるのです。

 報恩講の法話で、藤井先生がおっしゃっていたように、いつもどこでも「なんまんだぶつ」を忘れずに生きていこうと思います。

9月の言葉


「 亀は亀のままでいい
    兎にならなくていいのだよ 」

 兎と亀の話を聞くと、子育てのことが頭に浮かびます。
 兎の良さは、何事もうまく早くできるということ。ついつい親は、我が子は兎であってほしいと願ってしまいます。
 亀は、のろまでゆっくりです。子育て中、親はちょっと焦りますが… でも、その分、広い知識を得て、確実に歩みを進めていくとも言えます。

 どちらにも、長所はあるのではないでしょうか。

 大切なのは、自分で自分の『ねうち』をどこに置くかということ。 人と比べて良くできるから、早くできるから『ねうち』がある。こう考えると、常に周りが気になって、落ち着くところがない。疲れてしまいます。人と比べて自分の『ねうち』を決めているうちは、幸せを感じられる余裕が無いのでは…
 「子どもは、それぞれ、いろんな道を通って、最終的に、立派な大人になれば良いんだよ。」と、どこかの先生の言葉が耳に残っています。

 兎も亀も、自分の命を、精一杯輝かせて欲しいものです。
応援しています。   
             坊守

8月の言葉


 「 これからではない
     すでに救いのみ手の中 」

 『これからではない』というのは、「死んでからではない」という意味だと思います。
『すでに救いのみ手の中』というのは、「人生の一大事を乗り越える」前から、仏様の救いのみ手の中にあるということだと理解します。
 私は幸いにも、四人の両親の臨終に立ち会うことができました。四人それぞれに、私に「人生の一大事の乗り越え方」を身をもって教えてくれました。自分の力に頼っても、どうすることもできないのが、「人生の一大事」です。それを教えながら、皆、最後は穏やかな顔で、お浄土へと還って行きました。まさに、仏様のみ手の中で救われていったのだと感じました。
 私は、最後まで「死にたくない」と、ジタバタするのだろうと思います。それも含めて、「生きても死んでも、仏様のみ手の中」。そう思うと、ちょっと安心した気持ちになります。
              坊守

7月の言葉


 「 川のための岸
     私のための本願 」

 大変難しい言葉です。私にもよくわからないので、この言葉の解説になるであろう東井先生の詩を、そのまま紹介させていただきます。

川は
岸のために流れているのではない
川のために
岸ができているのである
川のために岸ができているように
私のために本願ができていてくださるのである
どこまでいっても澄むことのない私
いつ どこで どんな大暴れをやって
自他を破滅に追い込んでしまうかもしれないものを潜ませている
久遠の昔から流転を繰り返してきた私が
この度 せっかく人間に生まれさせていただきながら
どこへいくのかも知らず
それを知ろうともせず
流転をくり返そうとしている愚かさを見かね
凡聖逆謗斉廻入※の本願の海を成就し
そこへ導き入れ 攝め取るために
本願の岸ができ
はたらいてくださっているのである
川のための
わたしのための
本願 なのである。

※(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
『正信偈の一節。どのような者でも導き入れる』という意味

 歳をとるほどに、どうしようもない私を実感しています。「わたしのための本願」ありがたいことです。
            坊守

6月の言葉


「 聞くということは
      吸収すること 」

 聞通寺の中には「聞」という字が入っています。500年以上前に寺号が決められた時、「聞く」ということを大切にしようという強い思いから、つけられたものではないでしょうか。今でも、聞通寺と名付けられたお寺は、日本で一つしかありません。
 その名に恥じないように、今も当寺では、「聞く」ということを大切に考えております。聞法です。

 「聞く」と言っても、「耳で聞く」と「心で聞く」の二つがあるように思いますが、大切なのは「心で聞く」ということです。耳で聞いたものは、音として、すぐに流れてしまいますが、心で聞いたものは、感情が動いて、自分の中に吸収されていくように思います。
 本堂で出される湯呑みの底にも「聞」の字が入っているのを、ご存知でしょうか。

 いつの時代も、聞通寺は、仏法を心で聞いて吸収する場であってほしいと願います。

              坊守

5月の言葉


「 仏法というのは
   心の味を育てる宗教 」

 今月は、かなり難しい言葉です。心の味って何でしょうか???
 私もよくわからないので、東井先生が書かれた、教え子さんの逸話を、そのまま紹介させていただきます。

『Мちゃんは、高校の先生からも太鼓判を押されていた大学入試を失敗してしまいました。お父さんに呼ばれ、お父さんの前に正座しましたが、顔をあげることもできませんでした。そのМちゃんに対するお父さんの最初のことばは、
「Мちゃん、おめでとう」
でした。あまりに思いがけない言葉に、Мちゃんが顔を上げたとき、
「Мちゃん、おめでとう。いくらお金を積んでも、いくら望んでも得られない いい勉強をさせていただいたね。お父さんもずいぶん、いろいろな失敗をしてきたが、仏さまは、その度に、お父さんにとって一番大切なことを教えてくださる気がして、失敗を大切にさせてもらってきた。Мちゃん、いくらお金を積んでも、いくら望んでも得られない、今度の失敗、どうか生涯大切にするんだよ。それと一緒に、自分が得意の絶頂に立ったときにも、どこかに、泣いている人があるということを、いつも考えられる人間になっておくれ」
Мちゃんには、これが、仏さまじきじきのおことばのように思われたと言います。
 事実、仏さまは、このお父さんを通じて、Мちゃんを包んでいた失意の闇を、破ってくださったのでしょう。』

 心の味は、甘い、苦い、辛い、嬉しい… いろんな味をあじわって、育っていくのでしょう。また、他の人を思う時、もっと広く育つのでしょう。
 私は、自分の心の味、仏さまの力を借りで、もっともっと、味わわなければならないのでしょうか。
             坊守

4月の言葉


「 雨の日には
   雨の日のおめぐみ 」

 先日、孫の潤之を保育園に迎えに行く時、大雨が降っていました。さらに、風まで吹いています。私は、最悪の天気だと思いながら、しぶしぶ傘をさして出かけました。雨だと気分まで沈みます。
 なのに、保育園から出てきた潤之は、いつもより遠回りして帰ろうと言います。「なんでやねん!」と心の中で叫びながら、いやいやついていきました。
 ところが、潤之は大変楽しそうです。長靴とカッパを着て、水溜りという水溜りを、ジャバジャバと行きます。側溝を覗いたり、チューリップの花に溜まった水に感動したり、公園では水溜りと水溜りをつなげて、川を作ったり…本当に雨を楽しんでいるのです。その笑顔を見ていると、「雨も悪くないなあ」と思えてきました。

 先日のホームページの彼岸会の記事に「この頃、行事ごとに雨に降られている気がします」と、ネガティブなことを書いていた自分が、恥ずかしくなってきました。

雨の日には雨の日の
病む日には病む日の
老いの日には老いの日の
かけがえのない人生がある

と東井先生も、おっしゃっています。
決して「良い日」「悪い日」は無いのだと、親鸞聖人も説いておられます。
 もう一度、自分の都合で良し悪しを決める、身勝手さを反省です。
              坊守


3月の言葉


「 「自分のねうち」が見えると
    「おかげさま」が見えてくる 」
 東井先生の晩年の詩を、原文のまま紹介させていただきます。

一番 大切なことは
この 嫌われるのが当然の
きたない 私が
ほんとうは
「孤独ではない」という事実に
目覚めさせていただくこと
手が 動いてくださる
脚が まだ 働いてくださる
味が わからせていただける 
匂いが わからせていただける
呼吸が はたらきつづけていてくださる
心臓が 休むことなく
はたらいてくださる
通じが あってくださる
小便が 出てくださる
この
醜いものが
大きなみ手の どまんなかに
生かされているということの真実に
目覚めさせていただこう
老いて みえにくくなってきたことは事実であっても
聞こえにくくなってきたことは事実であっても
まだ 見えたら
まだ 聞こえたら
それは 充分
よろこぶに値することではないか
脚が 不自由になっても
まだ はたらいてくれたら
それも 大きなよろこびではないか
おかげさまの見える目を いただこう
おかげさまの聞こえる耳を いただこう
おかげさまの世界を歩むことのできる
脚を いただこう
「おかげさま」の見える目をいただこう
そうなれたら
この「老」さえも
「『老』のおかげさまで」という世界が
拓けてくださるのだ


 東井先生にとっても、「老」ということは、大きな課題であったことが伺えます。私も日に日に増える身体の不具合を、嘆いてばかりの毎日。その中で心に深く突き刺さる詩でありました。
 まだ、生かされているという真実を喜ばなければと思います。「おかげさま」の見える目をいただいていこうと思います。「老のおかげさまで」という世界までは、まだまだですが…
              坊守


2月の言葉


 「よろこびのたねを
      はぐくもう」

 「はぐくむ」という言葉を調べると、ただ育てるではなく、「大切に包みこむようにそだてる」とあります。良い言葉ですね。
 「よろこびのたね」は、人それぞれですが、私が思い浮かべるのは、まさしく生まれたての赤ちゃん。
 
 「生まれたての赤ちゃんを、大切に包みこむように育てていく」
きっと、大きなよろこびの花を咲かせてくれることでしょう。想像するだけでワクワクします。
 世のお父さん、お母さん、日々大変だろうけれど、「よろこびのたね」を精一杯ははぐくんでください。エールを送ります。
 私達も、じいじ ばあばの立場から、孫という「よろこびのたね」を、微力ながらはぐくんでいこうと思っています。
     
           じいじ、ばあば

令和6年 1月の言葉


「生きるということは
   長さの問題ではない」

 東井先生の詩を全文のまま紹介します。

「生きるということは
長さの問題ではないのではないですか」
炎天の葉陰の
沙羅双樹
たった一日のいのちを
いかにも 静かに
咲いてみせてくれている
清楚
そのもののように。

きのうは
あんなに清楚に咲いていた
沙羅双樹
けさは
地におちてしまっている

わたしは
きょうも 朝を迎えさせてもらった
申しわけないような
わたしのままで・・・。

じゃがいもを掘る
「見えないところに
どれだけ『徳』を蓄えることができるか
それが
『生きる』
ということではないですか」

しっかり生きたじゃがいもほど
しっかりした薯をつくってくれている。


 「長生きしたい」が、私の口ぐせです。それが恥ずかしくなるような詩です。
 私が長生きしたいのは、しっかり生きられていない自信の無さの裏返しなのでは…

 沙羅双樹のように、じゃがいものように、
生きたいです。

              坊守

12月の言葉


「如来さまのお慈悲に
   あわせていただきましょうね」

 この言葉の背景を紹介させていただきます。
 東井先生のお寺は高台にあって、周辺に住む人達が、お寺の下に横穴を掘って、地下水を引こうとします。これに激しい怒りの心がこみあげた東井先生は、その家にどなりこもうとされます。しかし、お勤めの最中、阿弥陀様のお慈悲を味わわれて、思い留められます。以下が、そのときの東井先生の想いです。

『如来様のお働きは、死んでから、そんな先の事ではなかったのです。現在ただ今も、わたしの為によりそって働きづめに働いて下さっておる。この光に導かれて、自分の恐しさに気づかせてもらい、お勤めが終わりますと、下の家へおりていきました。下の家も停電で皆んな寝ておりましたが、起きてもらいました。「門徒の方に知らせてもらって、穴があいたという事を聞いて わしは腹が立って腹が立って寝られなんだ。寝られんままに、法律の書物を引っぱり出して、調べて…」と一切の始終を話し、仲よく生きさせていただく道を話し合いました。(中略)
腹の立っている真最中に、私に寄りそって働きづめに働いて下さるお働きがあって下さったんですね。(中略)
如来様のお慈悲に出会わせていただきましょうね。私のためのお慈悲と出会わせていただきましょう。』

 今月の言葉で想いを結んでおられます。
 日々の生活の中で、腹の立つこと、我慢できないと感じる事はたくさんあります。その時、私は本堂へ逃げ込みます。すると不思議と心が落ち着きます。如来様は、私に寄りそって、働きづめに働いて下さっているんです。ありがたいことです。
              坊守

11月の言葉


 「思っているつもりでいたら
        思われていた私」

 「思われていた私」という言葉から一番思い出すのは、亡き聞通寺の母のことです。
「容子さんがお嫁に来てくれたことがありがたい」「孫の世話をさせてもらえるのがうれしい」
ということを口癖のように言っていた母でした。仕事に行く私を、息子と一緒に笑顔で送り出してくれました。
 若かった私は、その言葉を真に受けて、感謝しながらもどこかで「お寺にお嫁に来てあげたんだ」「孫の世話をさせてあげてるんだ」という気持ちがありました。何てひどい嫁でしょうか。
 今になって、責任を持って孫を預かることがどんなに大変なことか、痛感しています。
「何かあったら預かるから、とりあえずは保育所に入れてね!」と、息子と嫁に宣言した私。
 母は、私が安心して仕事に行けるように、「孫の世話ができることが嬉しい」と言ってくれていたのでしょう。
 いつもニコニコしている母でした。感謝しかありません。
               坊守

10月カレンダーの言葉


 「光に遇うと 光をもたない
   星までもが 輝きを放つ」

 単純に考えると、自ら光を放つ恒星と、その光を受けて輝く惑星を指すのでしょうか。満点の星を見上げると、2種類の星が同じように輝いて見えます。
 もう少し深く考えると『命輝け』の話につながるのでしょうか。命が輝く時というのは、何かの光(生きがい)に出遇い、一生懸命に生きている時、人は一番輝いて見えるのでは… 自分もそう感じるのでは… と私は思います。
 私にとってその出遇いは、聞通寺との出遇いだったのでは…
 もっと突き詰めて考えると、仏様との出遇いだったのでは…と少しだけ考えられるようになった最近です。
 5歳、2歳、1歳の孫を見ていると、生きていること、それだけで、まばゆい光を放っているように見えます。これから、どのような事に出遇い、どんな輝きを放つのでしょうか。その光を受けて、私も共に輝いていたいと思います。「健やかに…」とひたすら願うばかりです。
                坊守

9月カレンダーの言葉


「数えきれないほどのお米の
 一粒々々がいまこの茶碗の中に
 私のために」

 晩年の東井先生は帳面を持ち歩いて、その時々の味わいを書きつけられていたようです。その中の抜粋です。

こんないただき方では
もったいない
すまない
せめて 噛むだけでも
ていねいに噛ませてもらわなければ……と。
ご飯粒に
南瓜に
茄子に
茄子のごまあえのごまに
詫びながら
食欲不振の
尊いいのちをいただきながら
すみません
南無阿弥陀仏

これを読むと、今月の言葉のおもむきが変わります。
東井先生は、次の様にもおっしゃっています。

「年が寄るということは、寂しいことですね。 この寂しさは、寄りそって、はたらきづめにはたらいて下さっている『はたらき』お慈悲がなかったら、もう大変ですね。」
おおいなる念仏者の、東井先生でも寂しいのです。大変なのです。
 誰も皆、いづれお浄土へと旅立つのですが、「その時も仏様は寄りそってくださる」 その『はたらき』を、東井先生が自分の中で確認されている言葉に私は感じました。

 私も年々、寂しさが押し寄せてくるようになりました。でも、なかなかその『はたらき』を確認するまでには至りません。まだまだです。
             坊守

8月のカレンダーの言葉


「 悪人正機   
  この私がめあて 」

 今月はとても難しい言葉です。悪人正機というのは何か?
 簡単には書けない言葉ですが、あえて書くと、「阿弥陀様の本願は、悪人こそ救うためのものである」という考えです。親鸞聖人の教えの真髄とされています。

 【悪人】と言うのは罪人という事では無く、凡夫のことです。凡夫というのは、欲を捨てきれない人。 
 自分はそんなに悪人では無いと自分では思っているのですが、この度も、思い知らされています。
 私は6月に股関節の骨を切って、人工関節に換える手術をしました。お陰様で経過は順調。痛みから開放されました。皆に迷惑をかけての20日間の入院。再手術になったら大変です。
 少しだけ体重も落とし、「よし、これからも体重を落として、人工関節を大事に使うぞ!!」と堅く決心しました。7月始めの退院の時の話です。
 初めは、甘いものも止めてダイエットを頑張りました。リハビリ体操も毎日しました。
でも1ヶ月経つと、「今日は暑いから体操省略しよう…」とか、「ちょっとだけ自分へのご褒美にアイスクリーム食べよう」とか…
あんなに堅く決心したのに…

 全く、どうしょうもない凡夫、欲を捨てきれない【悪人】です。
 阿弥陀様の救いのお目当てこそ、【悪人】であることを自覚した、この私に他なりません。

               坊守

7月の言葉について


今月の言葉

「 うるおいのある目で見なかったら
  ほんとうのことは何も見えない 」

 東井先生の詩を原文のまま紹介します。人生の終盤にさしかかった東井先生が、「今までの人生を振り返り私は次のように考え、自分に言い聞かせています。」とのことです。

忘れていた
忘れていた 忘れていた
牛のような 静かな 澄んだ
うるおいのある目で物事を見るのでなかったら
ほんとうのことはなにも見えないということ
ものほしげなキョロキョロした目
おちつきのないイライラした目
うるおいのないカサカサした目
何かに頭を縛られた偏った目では
しあわせのどまんなかにいても
しあわせなんか見ることも頂くこともできないまま
せっかくいただいた二度とない人生を
空しく過ごしてしまうことになるのだということを忘れていた。


 キョロキョロした目、イライラした目、カサカサした目、偏った目。自分にはどれも思い当たる…
すっかり忘れている…
              坊守

6月の言葉について


今月の言葉


 「小さな勇気でいいから

  わたしはそれがほしい」


 東井先生の詩を全文紹介させていただきます。


  人生の大嵐がやってきたとき

  それがへっちゃらでのりこえられるような

  大きな勇気もほしいにはほしいが

  わたしは 小さな勇気こそほしい

  わたしのたいせつな仕事を後回しにさせ

  忘れさせようとする 小さい悪魔が

  テレビのスリルドラマや漫画に化けて

  わたしを誘惑するとき

  すぐそれがやっつけられるくらいの

  小さい勇気でいいから

  わたしは それがほしい

  明日があるじゃないか 明日やればいいじゃないか

  今夜はもう寝ろよ

  机の下からささやきかける小さい悪魔を

  すぐ やっつけてしまえるくらいの

  小さい勇気でいいから

  それが わたしは たくさんほしい

  それに そういう小さい勇気を軽べつしていては

  いざというときの大きい勇気も

  つかめないのではないだろうか


 とてもわかりやすい詩です。私には、ぴったりの詩です。

大きい勇気につながる小さい勇気。わたしもたくさん欲しいです。ちなみに、私の小さい悪魔は、美味しいスイーツに化けていると思われます。

                 坊守


5月の言葉について


今月の言葉

「 自分は自分の主人公
  光いっぱいの自分にしていく
  責任者 」

 原文の東井先生の詩をそのまま紹介します。

 自分は自分の主人公
 世界でただ一人の自分を
 光いっぱいの自分にしていく 責任者
 少々つらいことがあったからといって
 ヤケなんかおこすまい
 ヤケをおこして
 自分で自分をダメにするなんて
 こんなバカげたことってないからな
 つらくたってがんばろう
 つらさをのりこえる
 強い自分を創っていこう
 自分は自分を創る 責任者なんだからな。

 人生の応援歌のような力強い詩で元気づけられます。 でも、光いっぱいの自分、強い自分って、どういう自分なのだろうか?
思わず、考え込んでしまいます。

4月の言葉について


今月の言葉

「 大きな 大きな
  しあわせのどまんなか 」

 悲しみには、大きい小さいがある。怒りにも大きい小さいがある。でも、幸せには大小が無いように私は思います。幸せを受け取るのは自分の心です。

 私ごとですが、私は病気をいくつもかかえていて、今、主に闘っているのはリュウマチです。ちょっと悪化して満足に歩けない状態になっています。6月に手術をすることに決まりました。毎日痛みとの闘い、愚痴が出ます。ため息も出ます。やりたいことの半分もできません。同じ位の歳の人を見ては「なんて元気やねん!!」と腹が立ちます。小さい私…

「おばあちゃん、足が悪いから、引っ張ってあげる〜」と4歳の孫。周りに目を向ければ、息子達、嫁達、孫、そして院主も、そっと心配してくれています。
 手術をすれば、また歩けるようにもなるだろうし、命を持っていかれるわけでもありません。まだ、生きさせていただける。何という幸せでしょうか。
 私こそ「大きな大きなしあわせのどまんなか」にいると確信します。

 幸せアンテナをピンとたてて、大きな大きな幸せを常に受けとれる自分であろうと、改めて思います。
               坊守

3月の言葉について


今月の言葉

「 子どもが親を
  ほんとの親にしてくれる 」

 親になるというのは、守るべきものができたということ。自分より大切なものができたということ。それまでは、自分のことだけを考えていれば良かったものが、そうはいかなくなり、180度価値観が変わります。

 我家でも、4才、2才、0才の孫を子育て中。今まで、わがまま放題だった息子達が、子育てに奮闘しているのを見て、おかしくもあり、たのもしくもあり...
 思い通りにならないことを嘆きながら、まなざしには、愛と慈しみがたっぷりとこもっています。子どもが親を1ミリだけ仏様に近づけてくれているのかな... などと思いながら、子育て中の息子たちを見守っている、親バカの私たちです。
              坊守

2月の言葉について


今月の言葉

「 春を信じて
  冬を生きている 」

ひたすらなる「信」
すべての葉を おとしてしまって
冬を生きている
雪やなぎ
やまぶき
もくれん
沙羅双樹
あじさい
・・・
・・・
でも よくみると
みんな
既に
葉を用意している
蕾まで用意している
固く
固く
その芽を 守り
固く
固く
その蕾を 守りながら
まだまだまだ
なかなかなか
やってこない「春」を信じて
冬を生きている
おがみたくなるような
植物たちの
「信」の姿

ひたすらなる「信」
何事にもぶれぶれの私には、なかなか真似できません。 固い芽から、すがすがしい強さをもらいます。
               坊守

1月の言葉について


今月の言葉

「 「よろこび」をいっぱい
   袋に貯える年にしよう 」

 私の2023年は散々な幕開けとなりました。まず、風邪をひいて、そこから耳へ。 鼓膜が破れて左耳が聞こえなくなり、そのあとコロナに感染しました。どこで感染したのか、全く心当たりがなくビックリです。
 ニ階の子ども部屋に立てこもりました。子ども孫たちは出入り禁止。院主は一階、私は二階と分けての生活となりました。
 幸いに、ワクチンのおかげで熱も一日で下がり、味も臭いも一時無くなりましたが、すぐに回復し、あとは咳だけです。
 一週間の自粛生活でしたが、すぐに退屈になりました。でも、息子や嫁たちが、電話やラインで様子を聞いてくれたり、外の様子を知らせてくれたり。お料理を届けてくれたり、いろいろ買い物をしてくれたり。院主も、部屋の前まで食事を届けてくれました。時々、変なモーニングが届きましたが...(笑)それぞれの方法で気遣ってくれました。
 私は、二階でゴロゴロしながら、皆の気持ちが「何かありがたいなぁー」と、しみじみ幸せを感じました。
「よろこび」の袋が、早くも満タンになった感じです。もともと、「感染リスクが高い」と言われていた私が、重症化せずにすんだのも、とてもありがたいです。家族や周りの方々に感染者が出なかったのも、幸いでした。
 私の新年は「散々」な「幸せ」な年明けとなりました。本年も、どうぞよろしくお願い致します。

                坊守

12月の言葉について


今月の言葉
「 春夏秋冬
  いつも ありがとう 」

 この言葉の東井先生の書き添えです。
「私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを書きとめておくように努めているのですが、うっかりしていると見すごしてしまいそうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっていることに気づかせていただくのです。
 若い頃にはうっかりしていたことの中に、こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせていただけるのは、年をとったおかげさまかな、春夏秋冬、いつもありがとうと、よろこばせていただくのです。」

 聞通寺大根焚きも、一年間過ごさせていただけた、小さくて大きな幸せに気付く機会になれば...と、はじめました。
 あつあつの大根をほおばりながら、今年一年の“あれやこれや”を思い返してみましょう。
 御協力いただいた義援金は、今年の夏の豪雨災害の被災地等々に届けさせていただきます。 「幸せ送り」です。

11月の言葉について


今月の言葉
「 生かされている
  大きな はたらきの中で 」

 私は、リウマチ・心臓病・肝臓病等々いくつもの病気をかかえています。元気なのは、口だけです。毎月、病院に行く日がやってきます。その1週間くらい前から、不安で不安で...    お医者さんの言葉と、検査の数値に一喜一憂します。この不安は「死にたくない」という心から発生したもの。自分ではどうすることもできないものに、ジタバタあがいています。

 その時に、いつも思い返す【薬】の言葉を紹介します。親鸞聖人の教えを、明治に活躍した僧侶 清沢満之師がわかりやすく解釈したものです。

「不安な存在のまま汽車に乗り、汽車に乗ったなら、すべての荷物を下ろして、その荷物も自分の身も安心して運んでもらったらいい」
「あなたは汽車に乗っても荷物を下ろさないがために、その重荷に苦しんでしまっている。しかし、それは如来の仕事を盗むということになるんだ」

 私たちの存在を、そのまま支えてくれる大きなはたらきがあること、その大きなはたらきを確かめた上で、そこから安心して、この世を生きてゆく道が開かれていくということを示された言葉です。
 「私も安心して、ぼちぼち自分にできることをしていこう」と、落ちこんだ心に少しだけ元気がわいてきます。

10月の言葉について


今月の言葉
「 ほんものは つづく

  つづけると ほんものになる 」


中国のことわざに、

「十年偉大なり 二十年畏るべし 三十年歴史なる」

というものがあります。


つづけるということ、私の一番苦手なことです。日記とか、毎日掃除とか、ダイエットとか…。なかなか続きません。だからでしょうか、折りにふれ、私の頭の中によく出てきます。「三十年歴史なる」というところが一番好きです。

この地にお寺ができて1400年余り(霊松寺から聞通寺へと途中で変わります)。すごい年月です。その時々で、住職がおり、お世話くださる門徒さんがあり、山あり谷あり、皆の努力で続いてきた1400年。まさしく、聞通寺はほんものであると言えるのではないでしょうか。

皆の善意が社会に還元される行事をと始めた災害救援大根焚き。今年で4回目になります。歴史になるまではなかなかですが、今年もやります。ほんものになるまで続くことを願って!!あつあつの大根、ぜひ食べに来てください。

                坊守


9月の言葉について


今月の言葉

「 阿弥陀さまの お口もと
  母のほほえみ 」

「十億の人に十億の母あらむも 我が母にまさる母ありなむや」
暁烏敏先生(あけがらすはや 真宗大谷派僧侶 1879-1954)の詩です。
「世界には美しいお母さん、賢いお母さん等々、立派なお母さんはたくさんおられるけど、私のお母さんは、立派とはいえないけど、私を愛し、私のしあわせを願うことにおいては、世界でただ一人の世界一のお母さんです。」
という詩です。

 私にも息子が2人おりますが、そのように思ってくれているでしょうか…?
 ただ一つ思うのは、世界中のすべての人がわが子を見捨てても、私だけは見捨てることができないだろうということです。
 わが子が「やんちゃをした時」「心がうまく通じない時」等々... 「もう知らん!勝手にすればいい...!」と何度も思ったりもしましたが、やっぱり気になって気になって…  できませんでした。 今もできません。

 東井先生は、
「お母さんは、仏さまの名代ですから、どんな困った子でも、愚かな子でも、見捨てることができないのです。」と言われています。
 何となく、納得です。

 阿弥陀さまのお口もと、慈悲深い笑みをうかべておられます。わが母の笑みと重なります。
                坊守

8月の言葉について


今月の言葉


「こんなにおかげさまを

 散らかしている私

 すみません」


私は普段会社勤めをしています。

私事になってしまいますが、今年の4月以降同僚の退職等が重なり、投げ出してしまいたくなるような非常に忙しい毎日を過ごしています。

なぜ私だけが…

なぜ誰も助けてくれないんだ…

なんとかしてくれ…

と思う日も多々あります。

しかし、ふと立ち止まって考えてみると、自分が日常の中のしんどい部分しか見ていないことに気づく時があります。

私と同じように周りの方々も一生懸命業務に当たり、自分を助けてくれている部分もたくさんあることを思い出します。その時実際に「おかげさまで。」などと言ったりもします。

そのように忙しく仕事をしていると残業も増え、平日には家ではなかなか子供と話す機会がありません。起きる前に出ていき、寝てから帰ってくるパターンです。それでも、子どもたちは元気にすくすく育っていってくれています。

妻のおかげ、子供たち自身のおかげです。

さらによくよく考えると、今仕事が出来ているのも親が元気に産んで育ててくれたおかげです。

ふと立ち止まって考えてみるとおかげさまを散らかしている私でした。


8月はお盆もあります。

今ここに生きているのは、誰かの「おかげさま」ではないでしょうか。

一度考えてみてください。


        長男 恵之


7月の言葉について


今月の言葉

「 みんな みんな
  仏さまの お恵み 」

 東井先生の詩の一節です。全文を紹介させていただきます。以前にも載せさせていただいた気がしますが、もう一度。

お医者さんの薬だけが薬だと思っていたら
ちがった
便所へ行くのも どこへ行くのも
点滴台をひきずっていく
一日中の点滴がやっと終り
後の始末をしにきてくれた かわいい看護師さんが
「ご苦労様でした」
といってくれた
沈んでいる心に
灯がともったようにうれしかった
どんな高価な薬にも優った
いのち全体を甦らせる薬だと思った
そう気がついてみたら
青い空も
月も
星も
花も
秋風も
しごとも
みんな みんな
人間のいのちを養う
仏さま お恵みの
薬だったんだなと
気がつかせてもらった

 先週、次男のところに孫が誕生しました。
 まだまだ小さくてか弱いですが、生きる力にあふれていて、見ていると、自然と笑顔がこぼれます。まさしく、仏さまのお恵みです。
 縁之(えにし)と名付けられました。
 たくさんの人や物と縁を結び、仏さまのお恵みを受けて、大きく育ってほしいと願います。

         バババカの、坊守

6月の言葉について


今月の言葉

「  「自分の家」 ほんとうは
   「ただごとでないところ」  」

 うちの家の話をします。我家には、ちょっとおかしな決まりがたくさんあるのですが、その中の一つに「家族が困っていたら、どんな小さなことでも全力で助ける」というのがあります。
 これは子どもが小さかった頃に、私が楽をするために勝手に思いついて決めたものです。でも、そのたくらみとは反対に、忘れ物を学校まで全力で届けさせられたり、車で送り迎えをさせられたり、ずいぶんとこき使われました。
...が、今では、助けてもらうことの方がずっと多いです。新しく加入した、嫁や孫も、この決まりを守ってくれています。

 困った時に全力で助けてくれる家族、ありがたいです。 でも、本当にありがたいのは、私が勝手に決めた決まりを、息子・嫁・孫までもが文句を言わずに受け入れてくれていること。そして、たいして役に立たないのに、どっかりと居すわっている私を、居心地良く居させてくれていることなのだと思います。
 毎日、皆のことをちょっと心配させてもらいながら、あたりまえにぐっすりと眠れるところ。家というのは「ただごとでない、ありがたいところ」なのだと実感します。 そのことを思うと、「足が痛い!」「孫の世話は大変‼︎」「私は食堂のおばさんかい‼︎‼︎」等々の愚痴も、ひっこみます。
               坊守



5月の言葉について


今月の言葉

「 草も木も いのちを
   輝かせながら 伸びていく 」

 草も木も、いのちを輝かせながら伸びていく5月です。
 「えんどう豆」を戴きました。初物です。 青い香りとちょっとの苦み、春の味です。 ふきのとう、わらび等々、春は苦味がおいしい。どんどん伸びていく途中の苦味です。 これから、雨、風、太陽、虫...  いろんなものに出会って、秋の豊潤な甘みになるのでしょうか。

 人間もいっしょ。  おぎゃあ〜と生まれて、いろんな物いろんな人に出会い、つながり、別れ...  泣いて笑って、考えて伸びていきます。  この時、何に出会い、誰とつながるのかが、重要‼︎  御縁ですよね。

 そして、お浄土へ還る時には、どんな輝きを放つのでしょうか。私は、あたたかい、オンリーワンの輝きになっていたいと思います。

 2025年の大阪万博のロゴマークのキャラクターは「いのち輝きくん」と言います。『一人ひとりの個性が躍動しながら集まって、繋がって、そこにはきっといのちの輝きがある』というコンセプトの様です。世界中の「いのちの輝き」楽しみですよね。

                坊守

4月の言葉について


今月の言葉

「  「あたりまえ」をみんな
    なぜ喜ばないのでしょうか  」

 何となく見覚えがあると思ったら、3年前の3月のカレンダーにも同じ言葉が書かれていました。でも、3年前の2019年3月と2022年4月では、コロナによって世の中の「あたりまえ」が大きく変わりました。
・人と会い、大声で話ができた。
・マスクなく、外出ができた。 等々…
 その時の「あたりまえ」が、いま「あたりまえ」で無くなっています。3年前には、そんなに「ありがたい」こととは、思ってもみませんでした。

・朝になったら目が覚める。
・おいしいご飯が食べられる。
・足で歩いて、行きたいところへ行ける。
・笑える、泣ける、人と話せる。 等々…
 今も「あたりまえだけど、ありがたいこと」はいっぱいあります。

 これから先、世の中はどう動いていくかはわかりませんが、その時の「あたりまえ」の「ありがたさ」にしっかりと目を向け、喜べる自分でありたいと思います。
                坊守

3月の言葉について


今月の言葉

「  「よろこび」の種をまこう  」

 「よろこび」とは何でしょうか?
 宝くじに当たって、大金持ちになること?確かに、嬉しい〜!当たってみた〜い!と思うけど...  ちょっと違う気がします...

 日々、日常の中にある「小さなよろこび」
 今日は良い天気だ!とか、庭の花が咲いたとか、誰かにほめられたとか、新しい友だちができたとか、孫が初めて歩いたとか、皆でご飯を食べたとか…
 そういう「小さなよろこび」を、たくさん見つけて貯えてる人が、幸せな人ではないでしょうか。 反対に、不平・不満・愚痴をたくさん貯えてる人が、不幸な人。

 種をまいて芽を出した「小さなよろこび」。それを「雑草の芽」と見るか、「よろこびの芽」と見るかは、自分次第。
 「小さなよろこび」をたくさん見つけられる自分でありたいと、改めて思います。

2月の言葉について


今月の言葉

「悲しみにたえるとき
   あなたの目の色がふかくなる」

 奥の深い言葉ですね。東井先生は、仏教詩人で有名な「相田みつを」さんの詩より採られたみたいです。紹介させていただきます。


いのちの根
なみだを こらえて
なかしみにたえるとき
ぐちをいわずに
くるしみに たえるとき
いいわけをしないで だまって
批判にたえるとき
いかりをおさえて
屈辱にたえるとき
あなたの目のいろがふかくなり
いのちの根がふかくなる。

『大無量寿経』に
「身 自らこれにあたる。 代る物あることなし」とあります。

 悲しみもつらさも、自分の荷物は自分の荷物とあきらかに見きわめ、覚悟を決めて背負わせていただき、そのことを通じて、仏さまの大きなおいのちに目覚めさせていただく教えです。

 「ほとけさまの大きなおいのち…」 今の私には、正直良くわかりません。でも、自分の荷物を覚悟を決めて背負った時、自分の目の色が深くなっていくのだと思います。
 私の目も、深い色に近づきたいものです。

               坊守

1月の言葉について


今月の言葉

「  「明日」は「明るい年」  」


 新年にふさわさい言葉です。版画もとてもきれいですね。
 東井先生が、ある小学生とのやりとりの中で気付かれたことを、次の様に書かれています。

「今日」がある以上「明日」がある。「今日」が、どんなにつらい日であっても、必ず「明日」がある。「今日」があり「明日」があるなどということは、わかりきったあたりまえのことだと思って、七十七年もぼんやりと生きてきた私ですが、必ず、まちがいなく「明日」があり、それが「明るい日」として与えられていることは、すばらしいことなんだなと、目覚めさせてもらいました。

 そして、人生の一大事のことを、次の様に記されています。

私も、人生の卒業を目の前にしているので、あれもしておかなければ、これもしておかなければと、忙しい毎日を過ごしています。しかし、私にも『永遠の誕生』が待っていてくれるので、心を新しくしてがんばらなければなりません。


「明日」は「明るい日」、そして「新しい年」は「明るい年」
明けましておめでとうございます。
心を新しくして、ともにがんばりましょう。

                  坊守

12月の言葉について


今月の言葉

「 『俱会一処』
  大いなるであいの世界 」

「俱会一処」 墓石に刻まれているのを、見かけたことはありませんか? 「くえいっしょ」と読みます。
「生」と「死」を超え、血のつながりの「有」「無」をも超えて、俱(とも)に一処(ひとところ)に会うことのできる世界。
すなわち、阿弥陀如来のおられるお浄土を指します。 我家のお墓にも「俱会一処」と刻まれています。

 何年後かに私も行くであろうお浄土で、また、なつかしい皆に会えると思うと、安らぎをおぼえます。
 その時に、どんなお話ができるのか...   しっかり生きることを刻んでいきたいと思います。
                 坊守

11月の言葉について


今月の言葉

「家庭は いのちの灯を
  ともしあうところ」

 なかなか深い言葉です。 解説するには難しいので、私が思っていることを書きます。

 私が聞通寺にお嫁に来てから、家族も増えたり減ったり…いろいろ形を変えて、今では息子2人がそれぞれに結婚し、孫も2人生まれ、8人になりました。
 振り返ると、私は家族という単位をとても大切にしてきたと思います。家庭とは、心を充電する場所。そこで満充電されると、大人も子どもも外の世界へ元気に飛び出していけると信じています。 昔、小学校に勤めていた時の経験からくる考えかも知れません。
 又、私は「心配するのは母親の役目」だと思っていて、いつも心配ごとを見つけては、一生懸命心配しています。それが、×8になると大変です。ただ心配するだけで、実際は何もしてやれないのですが、全身で「いつでも、何があっても、あなたの味方だよ」というメッセージを送り続けてきました。勝手な応援団長です。
 その思いが、とどいているかどうかは、わかりません。けっこう、うざがられていたりして...
 でも、私はそれが、心の急速充電になると信じてきました。そして、満充電されると、ポッといのちの灯が、ともるのではないかと...


東井先生も、家庭のことを次の様に書かれています。

「家庭」は、家族の者が、それぞれのいのちの根を育てあう場、いのちの灯をともしあうところ、私を私にしていただく道場。
「根」を失ってしまっては、花を咲かせることも、実を実らせることもできません。私に、いのちの灯はともりません。
そのいのちの灯、生きがいの灯、私を私にしてくださる灯、それが、家庭の心の灯です。

                  坊守

10月の言葉について


今月の言葉

「このままの 私こそ
 仏さまの ご本願の お目あてであった」

 新型コロナウイルス感染症が流行しだして、一年半になります。ニュースでは、毎日、何人の感染者、何人の死者が確認された。と報じられて、一喜一憂する日が続いています。 『死』というものが、今まで以上に突きつけられています。

 皆、死にたくは無いのです。自分と自分の大切な人だけは、何とか死から逃れたいと思っています。それでも、必ず、平等に『死』はやってきます。

 どんなにお浄土が素晴らしい所であると聞かされても、やっぱり「死にたく無い私」がいます。
 「もうちょっと愛する家族と離れたくない」「もう少し孫の成長を見たい」「まだまだおいしい物が食べたい」「まだまだ、行ったことのない所がいっぱいある気がする」「まだまだ主人に言いたいことがいっぱいある!」等々、等々……

 仏さまは、こんな私をも浄土へと救いとってくださると、約束してくださっています。こんな私、だからこそです。仏さまのご本願は、こんな私のためにあったのです。 「死にたく無い私」「仕方無く死んでいく私」…そんな煩悩具足の凡夫を、そのままに仏さまのところへ還らせていただける。 ありがたいことです。

 お念仏をたよりに、いずれお浄土へと還らせていただくことと思います。 みっともない私のままで……

                 坊守

9月の言葉について


今月の言葉

「青い空も 月も 星も 花も
 みんな みんな 仏さまの お恵み」

 広く雄大な景色が頭の中にうかんできて、心がさわやかになる言葉ですね。 東井先生の詩の全文を紹介させていただきます。
 晩年に書かれた詩の様です。

「お医者さんの薬だけが薬だと思っていたら
ちがった
便所へ行くのにも どこへ行くのにも
点滴台をひきずっていく
一日中の点滴がやっと終り
後の始末をしにきてくれたかわいい看護師さんが
「ご苦労さまでした」といってくれた
沈んでいた心に灯がともったようにうれしかった
どんな高価な薬にも優った
いのち全体を甦らせる薬だと思った
そう気がついてみたら
青い空も 月も 星も 花も 秋風も
しごとも
みんな みんな
人間のいのちを養う
仏さまのお恵みの薬だっだんだなと 気がつかせてもらった」

 自分の周りの風景や出来事を、自分自身がどのように受けとるか... 人それぞれなんだろうと思います。
 それが「人間のいのちを養う仏さまのお恵みの薬なんだ」ということに気づくことは、むずかしいです。 でも、忘れないでいたいです。

 東井先生のように受けとれるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
                坊守

8月の言葉について


今月の言葉

「生きているものは光っている
 みんな それぞれの光をいただいて」

 私はすでに4人の両親を送っていますが、亡くなる瞬間に立ちあえたのは3人です。そのだいぶ前から、すでに意識は無いのですが、生きている時と亡くなってからでは、ずいぶん違うのです。 まさに「光が消えた」という言葉がピッタリです。 体はまだまだ温かくとも、ぬけがらになります。 お浄土へ還られたのだなと実感します。

 私達は光をいただいて生かされていることを、その時深く学びました。 両親は身をもって、そのことを教えてくれたのだと思いました。 自分がいただいている光を、消える日までしっかりかがやかそうと思いました。

                  坊守

7月の言葉について


今月の言葉

「拝まれ ゆるされ
 生かされている 私」

 聞通寺の境内の一番奥に、お地蔵様がいらっしゃるのをご存知ですか?
そのお地蔵様の話です。

この言葉は東井先生の文章の抜粋ですので、今月は、原文そのまま引用させていただきます。

 『お地蔵様にあいさつしようとしたとき、ハッとした。お地蔵様は私が手を合わせるよりさきに、私に手を合わせていらっしゃる。拝むものだけを拝まれているのではない。
 背いている真っ最中も抱かれていた。
 仏さまは、私の向こうではなく、私の背後にあった。
 私のような者も、拝まれ、祈られ、赦され、生かされている。
 幼い時からずっとずっと、こういう私によりそって、はたらきづめにはたらいてくださったはたらき、願いがあった。
 大人にも、子どもにも、私たち一人ひとりにかけられている大いなるものの願いがある。
 生きるための一切の努力も投げ捨てて、眠りこけていた私であったのに、目が覚めてみたら生きていた。いや、生かされていた。
 いつどこで、どんな大暴れをやり、自他を破滅に追い込んでしまうかもわからない恐ろしいものを潜めている川にそって、岸がつくられた。私にそって本願がある。
 私だけでなく、親子ともども大いなるいのちに、願われ、祈られ、赦され、生かされている。
 どんな荒れ狂う川の水も、摂(おさ)めとっていく海のように必ず摂取される世界があった。その世界のどまん中に、私は生かされていた。背いているときも、誘っているときも「み手のまん中」であった。
 気がついても、気がつかなくても、大いなる親のひざの上にいる。
 どこへいっても、何をしているときも、わすれているときも、私を支えてくれているものがある。
 自分を包んでいる大きな愛、願われているしあわせの思い、そういうものが苦難を乗り越える力になってきた。』

 少し長い文章ですが、わかりやすいですよね。
 大いなる願いの中に生かされている私であるということ忘れないでいようと、強く思います。
                  坊守

6月の言葉について


今月の言葉

「心と心の ふれあいを
粗末にしないで」

「ぎゅっとすれば伝わる」
「顔を見ればわかる!」
「いっしょにおしゃべりしようよ」

 コロナ禍では、どれも通用しなくなりました。 とたんに、心と心のふれあいがむずかしくなりました。 道で会っても、マスクのため隔たりを感じるのは、私だけでしょうか。

「コロナだから、仕方ないね〜」
「また、コロナが終息したらね〜」
 これは、本当のことだけど...  人とのふれあいを省略する、都合の良い言い訳にもなります。
 私は耳が痛いです。

コロナ禍でも、心と心のふれあえる方法、考えてみました。
・思い切って電話をする。
・字が汚くても手紙を出す。
・うまく打てなくても、メールをしてみる。
等々、いろいろありました。
 でも、どれも直接会うよりは、ちょっとめんどうで伝わりにくい。

 でも...でも、誰かを思う気持ちがあるなら、自分からワンアクション。心を発信してみてはどうでしょうか。

 コロナのせいにして、心と心のふれあい、粗末になっていませんか?

                 坊守


5月の言葉について


今月の言葉

「たった一度の人生を
 自分で汚すような ばかにはなるまい」

 このゴールデンウィークの話です。
 長男夫婦(子ども2人)は、一週間の北海道旅行を計画しておりました。長男は会社勤めで、職場が遠いこともあり、ふだんは朝は6時に出かけ、帰宅は11時近くになる忙しい生活を送っております。 その代わり、ゴールデンウィークは、きっちり一週間休みになります。 半年くらい前から、安い飛行機や宿を予約して、人の少ない所を選んで、何度も考えなおしながら、それは細かい計画を立てていました。

 ところが、突然の緊急事態宣言の発出。
 しかし、宿に問い合わせると、「どうぞ、気をつけて来てください。」とのこと。
 相談を受けた私達は、子どもを広い所で遊ばせたいという自分勝手な気持ちと、どれだけ時間をかけて準備したかを知っているので、「気をつけて行ってくればいいよ。」と言いました。次男夫婦も相談し、同じ考えで後押しをしました。

 しかし、長男夫婦は、次の日、あっさりとキャンセルしてしまいました。
「自分達が北海道にコロナを持っていくわけにはいかへんし、心に負い目を感じながら行っても、楽しまれへん。」と...

 おかげで、全員でステイホームのゴールデンウィーク。 家族で人生ゲームをしたり、バーベキューをしたり、粽を食べたり…。私はひたすら、ごはん作り。
 でも、「こんなに家族で過ごすゴールデンウィークは、今年限りかも…」と考えると、これもまた、いとおしい。

 一生の中では、欲望と戦いながら、判断をせまられることはたくさんあります。 北海道での感染者急増のニュースを聞くと、長男夫婦の判断は、正しかったのだろうと思います。 身勝手な判断をして、人生の汚点にならなくて良かったです。行くことを後押しした自分が、恥ずかしくなりました。
                 坊守

4月の言葉について


今月の言葉

「すばらしい自然の中で
 生かされているとのこと ありがたさ」

 今年も桜が見事に咲きました。4月の新しいスタートを応援するように咲く桜。日本ならではの風景です。
 桜の木の下で深呼吸。今年も桜が見られた喜びを感じます。 コロナ2年目に入ったからでしょうか。

 毎年、同じように咲いてるであろう桜も、少し悲しげであったりとか、喜びにあふれていたりとか、色あせて見えたりとか…  自分の「心もよう」によって違うように見えたりしますよね。
 それは、一歳、歳をとった自分を映しているのでしょうか。いろいろあった1年間を映しているのでしょうか。

 諸行無常の世の中で、毎年桜が咲く安心感。大いなるものにつつまれて生かされているありがたさを、毎年、桜に感じています。

                  坊守

3月の言葉について


今月の言葉


「聞こうという心がなかったなら
 聞いていても 聞こえない」

この言葉は、東井先生の詩の一節です。全文を紹介します。
「人間の目は ふしぎな目
たったこれだけのしくみで
なんでも見える すばらしい目
しかし この目も
見ようという心がなかったら
見ていても 見えはしない
人間の耳は ふしぎな耳
たったこれだけのしくみで
なんでも聞ける すばらしい耳
しかし この耳も
聞こうという心がなかったら
聞いていても 聞こえない」

 言葉というのは、耳で聞くだけなら『音』として、右から入って左に抜けていってしまいますよね。私なんて、左へ抜けていくのの早いこと……
 その『音』を心で聞く。 そうすることによって、はじめてあたたかな『言葉』であることに気付き、そして自分に響いてくるのではないかと、私は感じています。

 聞通寺の『聞』は、心で聞く『聞』であってほしいと思います。 仏様の声を心で聞く『聞法の場』であってほしいと願います。

                坊守

2月の言葉について 


今月の言葉

「拝まないときも
 拝んで下さっている 阿弥陀さま」


東井先生の言葉です。
「地獄には既製品はありません。皆、自分の作った地獄に自分でおちこんでゆくのです。私たちは、毎日毎日、地獄を作る営みに精出しています。憎んだり怨んだり、責めたり傷つけたり。それが再びはね返ってくるものですから、また倍にしてはね返しているのです。だから、闇は深くなるばかりで、どこまでも長夜は明けようとしないのです。 ところが闇が深まるほど、星が輝きますように、私達をみかねて飛び出して下さったのが、阿弥陀さまです。」

 先日、久々に姉とけんかをしました。60歳を過ぎても、まだこりず姉妹げんかです。理由は、つまらないことです。
姉「容子ちゃんには、私の気持ちは、わからへんと思う!」
私「姉ちゃんこそ、私の何がわかると言うのん!!」 ガチャン!(電話を切る音)
もう二度と、電話はしない!!と思いました。
 それから毎日、姉の悪いところを思い出しては、憎んだり怨んだりをくり返す私。次は何て言い返してやろうと、昔のことまで持ち出してくる私。
 でも、何度もくり返すうちに、はっと我に帰る瞬間があります。相手ばかりを責めている自分勝手さ、みにくさに気付きます。この気付きが、阿弥陀さまのはたらきなのでしょうか。私がめちゃくちゃ腹を立てている時にも、私に「早く気付けよ」と拝んでくださっていたのだとしたら...  もったいないことです。

 その時は、心を落ちつけて手をあわせる様にしています。 すると「倍返しはだめやろ〜」とか「もう少し姉の言うことを聞いてみよう」とか「又、電話してみようか...」とか思いなおしたりします。

 それでも、おろか者の私は、同じことをくり返すのですが…   東井先生の言葉をお借りするなら、
闇が深まった時にこそ、星の輝きを見失わない様にしたいものです。
                  坊守

1月の言葉について


今月の言葉

「きょうは 今日という作品を
 仕上げさせていただく日」



新年にふさわしい言葉かなと思います。
 我家では、毎年元旦に全員が一年の抱負を言うという習慣があります。私がここにお嫁に来て、37年間ずっとです。はじめは、皆の前で言うのは恥ずかしかったものですが、今では結構、気にいっています。
 新年と言っても、昨日と何の変わりもありません。年号が変わるくらいで、昨日と同じように太陽が昇り、足の痛いのがなくなるわけでも、体重が減るわけでもありません。でも、新年の抱負を宣言することによって、自分の進む方向を確認して、心をリセットすることができます。
 子ども達も、物心がついたころからずっとやっています。大人は、昨年言ったことなどすぐに忘れてしまいますが、子どもは良く覚えていて、
「去年、〜〜〜と言いましたが、それは割と達成できました。」とか、出来ばえの検証もするようになってきました。びっくりです。輝いた一年だったのだなと実感します。
 次男の嫁は、去年結婚したので、初参加です。「本堂のお花を勉強したい。」という、うれしい言葉をもらいました。
 思いも新たにしての、一年のスタート。その一年は、一日の積み重ね。 うれしい日、悲しい日、苦しい日、いっぱいあると思いますが、その一日をていねいに仕上げることによって、一日一日、そして一年が輝き出すのではないでしょうか。

 いろんな思いをのせて、スタートした2021年。今年もどうぞ、よろしくお願いします。
 
 コロナの中でどう輝くかは、自分次第ですよね。
                 坊守

12月の言葉について


今月の言葉


「人間はみんな
  すばらしい」


うちの息子は、前にも登場しましたが、小学生の頃、なかなかのやんちゃ者でした。いつも周りのみんなに謝ってばかりの私は、ちょっと子育てに疲れていました。

その息子には幼稚園の時からの友達T君がいました。彼はダウン症で「のびのび学級」に通っていました。そのT君、ある朝「学校に行こう」と息子を迎えに来てくれたのです。だいぶ遠回りになるので、私はびっくりしましたが、息子は普通に「お~。行こか」とか言って、出掛けていきました。

そのことを、後日ママ友に話すと「てっちゃん(息子のこと)は、T君にやさしいよ~」という言葉が何人からも返ってきました。私は救われた思いがしました。うれしかったです。

親にも見えない息子の良さを、T君はしっかりと見つけてくれていたんだと・・・。

ママ友もしっかりと見てくれていたんだと・・・。

どんな時でもかくれている、人間のすばらしさに気づく目を忘れないでおこうと思いました。


コロナ一色の一年間でした。

その中で懸命に頑張ってくださっている医療関係の方々、ワクチン開発に携わっている研究者の方々、本当に頭の下がる思いです。

又、自粛ながらも、愚痴を言いながらも、楽しみを見つけ、助け合って、たくましく生きている大多数の人たち。

「人間はみんなすばらしい!!」それに気付けた一年だったとも言えると思います。

来年はコロナが終息することを願っています。

坊守


11月の言葉について


今月の言葉

「きづかなくても
 大いなる親のひざの上」


 大いなる親とは、もちろん自分の両親のことではなく、仏さまのことです。

 我家の居間につるしてある聞通寺カレンダーの横に、もう一つ法語カレンダーがつるしてあるのですが、今月は、次のように書かれています。

「拝まない者も おがまれている
 拝まないときも おがまれている」


 奇しくも、どちらのカレンダーにも、今月は黄色いいちょうの木が描かれています。

 これを続けて読むと、

「拝まない者も おがまれている
 拝まないときも おがまれている
 きづかなくても 大いなる親のひざの上」

となります。 とてもしっくりと心にひびくと思いませんか。

 自分は、1人ではないということに、大きな勇気と生きる力をいただく気がします。
 眠っている時も、ごはんを食べている時も、何かになやんでいる時も、大声で笑っている時も、 私は願われ、拝まれて、ゆるされて生かされていたのだと思うと、お念仏が自然にわいてきます。
                坊守

10月の言葉について


今月の言葉

「働きづめに働いている
 心臓   ほらいまも」


 毎日毎日、死ぬまで働き続けてくれている心臓のこと、ふだんはすっかり忘れてしまっています。

 私は不整脈の持病があり、薬も服用していて、新型コロナの観点からは、いわゆるハイリスクの人です。 それでも忘れています。
 心臓は、時々その存在を示すように「トン、ト、ト、…トトン」と変な打ち方をします。その時だけは「どうぞ、今止まらないでー…」と渾身の力をこめて、心臓にすがります。(幸いに今のところ、そのまま止まってしまったことは無いですが...)  でも、「トン、トン、トン」普通にもどると、又忘れてしまいます。

 自分の意志によって、動かしたり止めたりすることのできない心臓。自分の中にありながら、私の思い通りにならないものの代表といえるのではないでしょうか?
 普段の私は、偉そうに「自分の力で生きている」と思っているけど、「生死無常のことわりのなかを、生かされている」のだというとこを思い出します。

 今日も心臓が動いてくれていて、ありがたいです。その生かされている間に、自分はどう生きるかを問い続けたいです。

                 坊守

9月の言葉について


今月の言葉

 「尊いものを仰ぐ

美しいものに感動」


尊いものとは何でしょうか?
先月の言葉から考えると「いのち」ということなのでしょうか。

ある幼稚園児のつぶやきです。
「ぼくの舌 動け」
というときは
もう動いたあとや
ぼくより先に
ぼくの舌動かすのは
何や?

この子どもは、人間存在の根底にある尊いものに気付いているのです。仰ぐ目を持っているのです。すごいことです。

最近、美しいものに感動したこと。
山で満点の星空に出逢いました。とても美しい。宇宙は無限だというけれど、「はてがない」とはどういうこと…?なかなか私の頭では理解できません。
でも、すいこまれるような満点の星空を仰ぐと、大きな力に生かされているような、不思議な感動をおぼえ、ふだん思い悩んでいる小事は、どうでもよくなってきます。

大人になると、偉そうに「自分で生きている」と思い込み、生かされているということをついつい忘れてしまいがちです。
尊いものに気付き、美しいものに感動する心、忘れないようにしたいと思います。
「ぼくの舌を動かすのは何や?」と気付いた、偉大な幼稚園児のように…

8月の言葉について


今月の言葉

「おとせばこわれるいのちだからこそ
このいのちが尊い」


これは東井先生の晩年の詩の一部です。
原文を紹介します。

おとせば
こわれる 茶碗
いますぐにでもこわれる茶碗

おとせば
こわれる いのち
いますぐにでも こわれるいのち

でも
それだからこそ
この茶碗のいのちが 尊い
それだからこそ
この わたしのいのちが
いとしい
たまらなく
いとしい

こわれずに いま
ここにあることが
ただごとではなく
うれしい

ただごとでなく
ありがたい。


東井先生は、茶碗にじぶんのいのちを重ね合わせて考え「おとせばこわれるいのち」という言葉で表されている。
ただ、茶碗といのちには違うところがあると私は思う。茶碗は見ることができるが、いのちは見ることができない。
見ることができる茶碗は、触る時もそっと触り、落とさないように大切に扱うことも容易である。
しかし、いのちは見えない。見えない故に、大切に扱うことも難しい時がある。ただでさえ見えないのに、目先の物事に目と心を奪われてしまい、それが全てに思えて、生きていることさえ忘れさせてしまうことがある。
東井先生は、私たちが見えなくなってしまいがちな「いのち」と向き合い、様々なものと重ね合わせて見つめ続けていたのだろうか。
私もいまここにある「いのち」見つめ、忘れることなく「ただごとではなく ありがたい」と思いたい。

                 次男


7月の言葉について

今月の言葉

「力をぬいたとたん
 世界がひらける」

哲学者の出隆(いでたかし)さんが、「水泳」について次の様に書いておられます。

「水は、人間を浮かせるだけの浮力をもっている。しかるに、人間が溺れるというのは、心の重みで溺れるのである。だから、溺れた人というのは、『こんな所で…』と思われるほど浅い所で溺れている。結局、水の浮力に足をとられて慌ててしまい、その心の重みで溺れたのである。心を無にして、身も心も水に預ければ、自分の力を使わなくてもおのずから浮かぶ」


いつも私事で申し訳ないのですが、私の子育ての話です。


息子は、小さい時(?)それそれはやんちゃでした。

幼稚園、小学校と「いじめられた」「なぐられた」「物をこわした」…苦情が殺到しました。

両親の入院が重なり、ちょっと目を離したすきに、大変なことに…。

それに気付いた私。「これは、私が、私が何とかしなければ~」「もし、人に取り返しのつかない迷惑をかけるような事があれば、この子を殺して、私も死ぬ!!」くらいの気持ちでした。ありとあらゆる手段で息子に対抗しました。

しかる、なだめる、泣きおとし…。ランドセルの中にも「友達とけんかしない」とか「人の気持ちを考える」とか、付箋をたくさん貼ったりしていました。

学校から帰ってきたら、「今日はどうやった?」と聞くのが日課。待ち構えて、私がドキドキしていました。後日、息子から「けんかした日には家に入れず、家の周りをグルグル回ってから帰宅していた」と聞きました。

そうこうした戦いが何年も続いて、小学校5年生のある日、息子から「わかったから、もうええわ!!」と言われました。うれしかったです。その時、肩の力がふーっと抜けたのを覚えています。

すると、いろんなものが見えてきました。子供は、少しずつ確実に成長していました。

少し距離をおいて、子供の伸びる力を信じて、やかましく言うのをやめました。

言葉は選んで少なくです。


それからもちろんいろんなことがありましたが、今では市内の小学校に勤務。6年生の担任をしています。今でも5年生の頃のことを思い出して、「おれが人間になったころ」なんて言い方をしています。


熱い思いは必要だと思いますが、『私が』『私が』と思いすぎると、何にも見えなくなると思い知らされた、なつかしい思い出です。


「心の重みで溺れない様に!!」です。


         息子の母


6月の言葉について


今月の言葉

「家に
こころの灯を」


家とは、家庭のことです。
東井先生は、家庭のことを次のように言っておられます。

家庭とは、こころを育てる畑です。
家庭は、みんなが疲れて帰ってくるところ。きれいごとはできません。疲れをわかりあい、いたわりあい、わずかな喜びもみんなでわけあって大きい喜びにし、明日への活力に変えていく。それが、家庭というものです。

新型コロナの影響で、いきなり「ステイホーム」と言われ、外に向いていた目が家庭にむかざるを得なくなりました。夫婦、親子、今まで避けていたことにも、向き合わざるを得なくなりました。コロナ離婚、子供の虐待などのニュースも耳に飛び込んできます。

私の「ステイホーム」
我家は7人家族。(長男、次男夫婦とも、寝るのは近くのマンション)
息子も嫁も全員外で働いていて、リモートワークもできず、私は家にいて思い切り心配して、何も手につきません。これではダメだとハウスキーパーの私ができること、3つ決めました。
①家族のことは思い切り心配するが、必要以上にコロナを恐れない。
②外食を避けるため、ひたすらご飯を作る。
③どんな時も笑顔で家族を迎える。
がんばったのですが、③いつも笑顔‼︎ これが一番難しい。この時期にマスクを忘れて出かけていく住職、息子… 腹が立ちます。「私がこんなに心配しているのに〜... 爆発!!」そして自分の我慢のなさに、またまた腹が立ちます。
それでも家族で過ごす時間は確実に増えました。一歳10ヶ月の孫が家族全員の名前が言えるようになりました。お箸も間違わずに配れます。
少しずつ動き始めた世の中、我家の「ステイホーム」はこころの耕しになったのでしょうか??

家庭の畑を耕すことはできましたか?活動が再開されたときに思い切り飛び出して行けるように、こころの充電してくださいね。

                  坊守

5月の言葉について


今月の言葉


「ゆるしてもらって
  生きていた私」


この言葉は、東井先生が晩年に書かれた詩の題名です。紹介します。


この

醜いものが

大きなみ手の どまんなかに

生かされているということの事実に

目覚めさせていただこう

この私が

なお 現在ただいまも

祈られ

願われ

生かされ

おがまれ

赦されて ここにあるという事実に

目覚めさせていただこう


「老」いている いまも

み手のまんなか ということだ

いま み手のまんなかに 生かされているから

いつ壊れても

み手のまんなかなのだ

「老」も

み手のまんなかの「老」なのだ

「死」もまた

み手のまんなかの「死」なのだ

「死」のときの苦しみ「死にざま」は

私にも気にならないことはないが

どれもみんな

「み手のまんなか」のことなのだ

「み手のまんなか」で苦しみ

「死にともない」とわめきながら

「み手のまんなか」で

この世の終わりを迎えさせていただき

「み手のまんなか」に帰らせていただくばかりなのだ

事実

「死にざまなど 気にすることはないのだよ」

といってくださっているのだ


ゆるしてもらって生きているというと、そんな訳ない、自分で生きているんだと返ってきそうですが…。
私たちは普段生活していると嫌なことや腹が立つことが多々あり、また、心配事にも悩まされて生きています。それは、自分の欲(煩悩)から出ているものだとわかっているのです。阿弥陀如来はそんな欲望にまみれた私たちを赦(ゆる)し、生きることを願われています。

私も普段の生活の中でそのことを意識しているかというと、そんなことはありません。

仕事で嫌なことがあった翌日にまた起きて仕事に向かわなければならない時などは、正直逃げ出したいと思います。しかし、そんな自分でも阿弥陀如来のみ手の中で赦され、生かして頂いていると考えると、自分が逃げようとしていたことが小さく見え、少し気持ちが楽になる気がします。

新型コロナウイルスへの感染リスクや、それに伴う経済活動への影響など生活への懸念等で、心配事や苛立ちが増えてきている状況ですが、今自分がここに生かされているありがたさを意識しながら、生活したいと思います。

                             長男


4月の言葉について


今月の言葉


「光いっぱいのあさ
  光いっぱいの世界」


この言葉は、晩年の東井先生の詩の題名です。紹介します。


きょうは十月三日

病院の窓の外は 光いっぱい

若いお父さんが

よちよち歩きの子どもの手をひいて

明けたばかりの 朝の

円山川の堤防を歩いている

一日のはじまりの

この爽快は朝の味を

ぜひ愛児にもという父親の愛情であろうか

あの子のお母さんも

きっと

家中の窓をみんなあけて

新しい空気を入れながら

朝の食事の用意をしているのだろう

光いっぱいの朝

わたしもやがて

光いっぱいの世界に帰らせていただける

きのうの残りの糸も切っていただく

腹の管もぬいていただく

いのちをいただいて

やがて

光いっぱいの世界に

帰らせていただく。


光いっぱいの世界とは、お浄土のことです。私たちはだれひとり

”もれることなく”、お浄土に救いとると阿弥陀如来が約束してくださっています。

その約束を思い出せば、目先の嫌なことにとらわれることなく、

ただの朝が、光いっぱいの朝に感じられる気がします。


                 次男


3月の言葉について


今月の言葉

「生きているということは
長さの問題ではない」


 この言葉は、東井先生が書かれた詩の抜粋です。その詩の一部を紹介します。

「生きているということは
長さの問題ではないのではないですか」
炎天の葉陰の
沙羅双樹(さらそうじゅ)
たった一日のいのちを
いかにも 静かに
咲いてみせてくれている
清楚
そのもののように。

きのうは
あんなに清楚に咲いていた
沙羅双樹
けさは
地におちてしまっている

わたしは
きょうも 朝を迎えさせてもらった
申しわけないような
わたしのままで...。

 沙羅双樹というのは、日本では沙羅の木(夏椿)のことを指します。夏に白い花をつけて朝に咲いたら、夕方には散ってしまいます。
 そのはかなさは、平家物語にもうたわれています。近くでは、京都の妙心寺東林院の沙羅双樹が有名です。

 「長生きはしたくない」「いつ死んでもいいわ」という声をよく耳にします。 でも、本当にそう思っているかは疑問です。
 新型コロナウイルスの感染が流行しはじめたとたん、人々は、マスクを買いに走り、手洗いうがいを励行して、自分や自分の大切な人を守ろうと必死になります。少し、死というものが身近に見え隠れしたのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスの流行は、生きているのが当たり前になっている私たちへの問い…「おまえ、それでいいのか」と生き方を問われているような気がします。

 新型コロナウイルスの流行の終息を、心より願います。

2月の言葉について


今月の言葉


「お念仏は 真実の親の お呼び声」


 今月は奥深い言葉です。
 私と念仏について考えてみます。難しいことはわかりませんが、私にとってのお念仏は、精神安定剤のようなものです。

 お寺に生まれた私は、他の人より少しだけお念仏の近くで育ったと思います。実家の父は「願い事をするのでは無く、感謝の気持ちで手をあわせるんや」といつも言っていましたが、子どもでしたし、深く考えたことはありませんでした。 しかし、困った時、悲しかった時、緊張した時、嬉しかった時、いつも心の中で呪文のように「南無阿弥陀仏」と繰り返して、大きくなった気がします。

 それは、聞通寺に嫁いだ今も変わらずです。 どうにもならないことがたくさんある現実社会を生きていく中で、お念仏を唱えることで、何か大きなものに包まれている不思議な安心感が湧いてきます。ちょっと強くなれます。また、がんばれます。 これが「真実の親のお呼び声」なのでしょうか。

 お念仏である「南無(拠り所とする)阿弥陀仏(阿弥陀如来を)」という六字を、自分が口に出すことで、真実の親(阿弥陀如来)の「私のお浄土に迷うことなく来なさい」というお呼び声が聞こえる、その安心感が私の気持ちを落ちつかせてくれているのです。

                 坊守

令和2年 1月の言葉について


今月の言葉

「しあわせに 小さいのはない

 大きいのばかり」



 新年にふさわしく、しあわせのお話です。
 私事になりますが、昨年末に年末ジャンボの宝くじを20枚ある人からいただきました。私は宝くじを買ったことがなかったので、宝くじを手にして「10億当たったらどうしよう〜!本堂にエレベーターを付けて…、床暖房も良いなぁ…。釣鐘堂を新しくして…。いやいや、世界一周旅行もしてみたいし…」とあれこれ想像をふくらませました。(当たりませんでしたが…)
もし、10億円が当たったら、

飛びあがるような最高のしあわせ

だろうなと思いました。
 
 お正月に家族全員でトランプをする機会がありました。大富豪を5回戦やりました。最下位は、次の日の晩ごはんをご馳走することになっているので、みんな真剣です。盛りあがりました。結局、院主が最下位になり、皆にご馳走するはめに…。
 皆、笑っていました。

しみじみとした しあわせ

を感じました。

 1歳5ヶ月になる孫の真唯(まゆ)が、少しずつ、いろんなことが出来るようになってきました。ある日玄関に行くと、たくさんの靴の中から私のを選んで持って来てくれます。
履こうとすると、靴べらで履かせようとしてくれます。
 かわいくてかわいくて…(バババカです)

とろけそうなしあわせ

を感じました。

 さて、しあわせを3つあげてみましたが、私の中では、どれが1番大きいのでしょうか。10億円…?いやいや、そうでも無いです。
 しあわせには、形の違いはあるけど、大きさの違いは無いように思いました。どれも大きなしあわせですよね。(1つ目は現実では無いですが…)
 ただ、しあわせをしあわせと感じる心には敏感でいたいと、いつも思っております。
本年もよろしくお願いします。

                坊守

12月の言葉について


今月の言葉
「子どもはおとなの父
子どもは「いのち」のふるさと」

 私たちは、ふるさとから生まれてきて、ふるさとへ還っていきます。そのふるさととは「お浄土」のことです。
 子どもはそのふるさとからの生まれたて。お浄土により近い存在ということになるのでしょうか。

 「おとなの思いあがりを棄てて、子どもの言葉に耳をかたむけてみましょう。教えられることが、たくさんあるはずです。子どもを導かなければならない私が、子どもに導かれて、ここまで来させてもらったのです。」と東井先生も言っておられます。

「この子さえいなければ…」と考えたこともある我が子を、
「この子がいてくれたおかげで…」と位置づけたときから、私は世の中がきらめいた気がします。

                  坊守

11月の言葉について


今月の言葉
「口がとがってしまうと耳が粗末になる
口より耳が大切なのに」

 「聞法」という言葉があります。仏さまの教え(仏法)を聞かせていただくという意味です。聞通寺の「聞」にも、この意味が込められています。しかし私たちは、つい「私が私が」という自我の意識が強く、素直に仏さまや相手の言葉を聞こうとしません。東井先生が紹介されている次のお母さんの話は、そういう私たちの姿でもあるのでしょう。

5年生の子の日記
 僕のお母さんの叱り方は、大変面白い叱り方です。僕には一言もものを言わせないで、ペラペラ ペラペラ二十分間くらいつづけてお説教します。まるで「ビルマの堅琴」の映画でみた機関銃のようです。僕はその間、よく聞いているような格好をしております。お母さんは叱ってしまうと、いつでも「わかったか」といいます。僕は何もわかりませんが「はい」ということにしております。
 先生、今日の日記のことは、お母さんには話さないでください。

 私たちも、このお母さんのように、口がとんがってしまい。耳が粗末になりがちではないでしょうか。

 聞くということは、相手のことを理解するということです。人は、わかってくれる人のことを大好きになり、大切に思います。
 聞くことが大切なのです。  「口より耳」もう一度再確認して、実践していこうと思います。

 仏さまの耳は、私たちの大事な胸の中のつぶやきもちゃんと聞いてくださるために、大きな耳になっているようですよ。

10月の言葉について


今月の言葉
「仏さまは いつも
私たちの心の中に」

 今月は、とても深いお言葉です。
 東井先生が、この言葉に添えられている文を紹介します。

 「泣」という字は「サンズイ」に「立」という字が添えてあり、「涙」という字は「サンズイ」に「戻」という字が添えてあります。私達が深い悲しみに出会い、涙に溺れそうになっている時、必ず「立」ち上がらせずにはおられないという仏さまの願いを表すために、「サンズイ」に「立」を添えて「泣」という字にし、「涙」におし流されてしまおうとする私たちを、必ず引き「戻」してくださる仏さまのお心を表すために「サンズイ」に「戻」を添えて「涙」という字にしてあるのだと聞いたことがあります。

そして、「仏さまはいつも 私たちの心の中に」おられるのです。
と、続きます。

 私達が悲しみの底に落ちている時、なかなか立ちあがれずにいます。しかし、しばらく…しばら〜くすると、心の底から少〜しずつ、何かがふつふつとわいてくるということがありませんか。 これが「私の心の中の仏さま」であると、私は思っています。

                 坊守

9月の言葉について


今月の言葉
「亀は亀のままでいい
兎にならなくていいのだよ」

  東井先生は、走るのが苦手だったらしく、師範学校でいつもビリを独占していました。
ビリを走りながら、毎日考えたことは「兎と亀」の話だったらしいです。
  この言葉の元になった先生の心の内を紹介します。

『あの話では、亀は兎に勝ったけど、兎が亀をバカにして途中で一眠りしたから、たまたま亀が勝ったにすぎません。亀は、いくら努力しても兎にはなれないのです。
しかし、日本一の亀にはなれます。この話は、日本一の亀は、つまらない兎よりも、ねうちが上だという話ではないかと…
だから、私も「日本一のビリになってやろう」と考えたのです。』

そのうちに、先生は気付きました。

『もし、ぼくがビリを独占しなかったら、他の誰かが、この惨めな思いを味わわなければならない。  ぼくも、みんなの役に立っているんだ。』
ということを。

『もし、ぼくが教員になったら、ビリの子どもの心の解ってやれる教員になろう。「できないのは、努力が足りないからだ」などと、子どもを責める教員にはなるまい。』
ということを。

先生は生涯、走ってもビリになる子、泳げない子、勉強の苦手な子にも、生きる喜びに目ざめてもらえるように念じ続けて、教員生活を送られました。  晩年には、次のように結んでおられます。

『愚かで不器用な私に、「兎と亀」の話を思い出させ、「亀は亀のままでいいのだよ。兎にならなくてもいいのだよ。」と、気付かせてくださったり、不出来な教員にも、不出来な教員の生きがいに目覚めさせてくださったりする“はたらき”が、はたらき詰めに働いてくださっていた気がするのです。』

兎にあこがれ、周りにあこがれ、自分にないものを貪欲に欲していく。その思いが、自分の首をしめていることに気付かず、自分を苦しめる。
比べる必要はなく、亀は亀のままで、自分は自分のままでいい。すると、周りを認めることもできる。
少し、気が楽になりました。

                                                         次男

8月の言葉について


今月の言葉

「幸せのどまん中にいるのに
幸せが見えない」

  親と子、家族が無事に一日をすごすことができ、何事もなく一日が暮れたということ。
  それが、どんなにただごとではないことであるかを、日々 感じて生きていますか。

  私達は、大きな災害や事件を目の当たりにした時にだけ、痛感させられます。
  今、この時を生きているという大きな幸せを感じとること。  大事なことです。

7月の言葉について


今月の言葉

「大きい人と小さい人がある
体のことではない  生き方のことだ」

  この言葉は、東井先生の詩の一節です。この詩の中には、東井先生の知り合いの方々が登場します。どんな方なのか想像しながらあじわってください。

大きい人と小さい人とがある
体のことではない
生き方のことだ
梅田の賢さんはわたしとおなじ明治四十五年の生まれだが
毎日山仕事にいっておられる
「六千円貰える仕事なら せめて七千円分は働かせて貰わねば…」
というのが賢さんの信条だという
そういえば
うちの法座のときにも
いつも一番早く参って
おしまいは
ざぶとんかたづけから灰皿のかたづけまでして帰っていかれる
大きい世界を生きておられる 賢さん
自分のことさえしかねている  小さい私
この間から
無人の西川の庭木をきれいに剪定してあげていてくださるのは武知先生
どがいしょなしばかりいるうちの栗園の下草を
いつの間にかきれいに刈っていてくださっているのもどうやら  武知先生
大きい世界を生きておられる
武知先生
自分のことさえしかねている
小さい私
家でも  わたしが
いちばん小さいのではないか
「無理をしないでください」「休んでください」と
心にかけてもらうその何十分の一
老妻のことを私は心にかけているだろうか
パンツの洗濯から何から何までして貰う
その何十分の一を私は老妻にしているだろうか
ひょっとすると孫よりも小さい世界を生きている私
小さい私
はずかしい私

  改めて、私のまわりを見渡せば、大きい世界を生きておられる方が沢山います。
  ほんとに小さい私、はずかしい私です。

6月の言葉について


  6月、梅雨入りも間近のようです。

今月の言葉

「生きているつもりでいたら

生かされていた私」

  私の身体の中に、気がつかないうちに働いてくれてるもの。何があるでしょうか。
「目」「鼻」「口」…「胃」も「腸」も…
それから、「肺(呼吸)」も「心臓」も。
 
 呼吸が止まったら、たちまち死んでしまわなければならないし、心臓が止まっても大変。
  主人公である私は、忘れっぱなしなのに、年中無休で休むこともなく働いてくれているのです。

東井先生のお言葉です。
「生きている」つもりでいたら、何もかも「生きさせてもらっていた」のです。仏さまは私の中で、忘れっ放し、そむきっ放しの私のために、生きてはたらいてくださっていたのです。

  ともすれば、自分で「生きている」ように思いがちなこの命。「生きさせてもらっている」という御心を顧みながら、生きていきたいと思います。

5月の言葉について


境内にさきほこっていた牡丹の花も散ってしまいました。

今月の言葉

「生きているものを

存分に伸ばしてくれる  光と慈雨」

  今の季節、春の光に遇い、そして慈雨(いつくしみの雨)に遇うと、木々は鮮やかな芽をふきぐんぐんと伸びていきます。
  生きているものはみんな伸びたくてたまらないのです。存分に伸ばしてくれる光と慈雨を待っているのです。  それは人間も同じことです。

  東井先生はこの言葉を、世の親御さんに向けて発信しておられます。紹介します。

「お母さん方、子どものほめ方、叱り方、そんなわざとらしいことに心を奪われてないで、お子さんの光になってください。 慈雨になってください。 そのためには、お母さん方ご自身が光を求めてください。
  お母さん方、どうか、いい子の芽が見えたときには、ほめるより喜んでください。そして、その反対の時には、叱るより悲しんでください。叱られてビクともしない子も、お母さんの悲しそうな顔にふれると、シュンとなってしまいます。」

 先生は、お母さんを小学一年生の時に亡くされています。そのお母さんとの思い出です。
  先生が妹さんのおやつを横取りした時、悲しそうな顔をしていたお母さんが、先生の襟首をつかんで土蔵に連れていきました。先生は、暴れたらお母さんの力くらいふりきって逃げることができると思いましたが、「逃げてはすまんな」という心がわいたと言われています。

「『すまん』という思いは、人間の心の一番底のところにいただいている思いだと思うのですが、それがお母さんの悲しみの表情にふれると「人間らしさ」の基本となって、育ってくれるのです。」
と、くくられています。

  私も一人の親として、いくつになっても、光と慈雨になれる存在でありたいと思います。

坊守
       

4月の言葉について


桜もそろそろ満開を迎えます。
4月、新しいスタートの季節です。

今月の言葉

「二度とない人生
二度とない今日  ただ 今」

  東井先生がこの言葉を書かれるきっかけとなった事件と、その解説を紹介します。

  T大学の学生が「テレビがうるさい。子供がうるさい。」と、下宿の主人や近所の主婦など5人を刺殺する事件がありました。
  T大学の学生ということは、頭脳は相当優秀なのでしょうに、自分のただ一度の人生を台無しにしてしまったのです。いくら頭が良くても、賢いとは言えません。仏教では、これを「痴(おろか)」と言います。
  さて、この学生は、テレビや子どもの騒音に腹を立てたのですが、この怒りや腹立ちのことを、仏教では「瞋(いかり)」と言います。この「瞋」を制御する力を育てられていなかったため、取り返しのつかない罪を犯してしまったのです。
  人間の心の中には「自分の都合の良いように気ままに生きタイ」「おいしいものを食べタイ」「遊んで暮らしタイ」というようなタイが無数に住んでいます。このタイのことを、仏教では「貪(むさぼり)」と言います。この学生は「他人に邪魔をされないように生きタイ」というタイが、「瞋」と結びつき「邪魔するものをやっつけタイ」となり、取り返しのつかない「痴」を発揮してしまったのです。

  二度とない人生。私の心の中にたくさん飼っている『タイ』に乗っ取られない様に、今日、今をしっかり生きていきたいものです。

3月の言葉について


弥生三月、いよいよ春めいて参りました。
花粉症の季節でもあります...

今月の言葉

「『あたりまえ』をみんな  なぜ喜ばないのでしょう」

  この言葉は、悪性腫瘍のため亡くなられた若き医師 井村和清先生(1947-1979)が飛鳥ちゃんというお子さんと、まだお腹の中にいるお子さんのために書き残された「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という本の中にある「あたりまえ」という詩の一節です。
  亡くなられる二十日前に書かれたものです。紹介させていただきます。

あたりまえ

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足がある
行きたいところへ自分で歩いていける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして朝がくる
空気を胸いっぱいすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう  あたりまえ

 
  「あたりまえ」をたくさんいただいている私たち。その喜びに、しっかり気付ける自分でありたいと思います。

2月の言葉について


まだまだ寒い日が続きますが、今日は立春。どこかに春の気配を感じます。

今月の言葉

寒さの中で暖かさの喜びを知らせてもらう


この言葉は、東井先生が書かれた詩の一節です。紹介します。

雨の日には 雨の日の
悲しみの日には 悲しみの日の
かけがえのない大切な 人生がある
暑さの中で
涼しさの味を しらせてもらう
寒さの中で
あたたかさのよろこびを しらせてもらう
しあわせには
小さいのはない
大きいのばっかり
ちょっとみると小さく見えるのも
ほんとうは 私にはすぎた
大きいのばっかり

  私事ですが、5年前に膝に人工関節を入れる手術をしたました。病気のため、膝がつぶれ、歩けなくなってしまったのです。
  それまでは山登りが好きで、少々の距離はあたりまえに歩いていましたので、なかなか受け入れられませんでした。
「足さえ治れば、何でも頑張れるのに…」と思い続けていました。
  今の医学はすごいです。膝に人工関節を入れる手術で、見事に歩けるようになりました。
「歩けるってすばらしい!  歩けるってありがたい!」と心より思いました。
  あれから5年、そのありがたさを忘れて、不平不満を口にしている私がいます。
  お恥ずかしい限りです。
 聞通寺 坊守

1月の言葉について 

 
  今月の言葉
おかげさまのいのち、おかげさまの新年

  この言葉についてのエピソードを、ご自身で書かれているので紹介します。
  東井先生の長女が三歳の時、百人中九十九人は助からぬと言われている重い病気にかかられたことがあるそうです。
  脈をにぎっていると脈がわからなくなり、いよいよ別れの時かと思っていると、又ピクピクと動いてくる。これを何度もくり返し...
夜半十二時を知らせる柱時計の音を聞いた感激。
  「ああ、今日も親子で生きさせていただくことができた」「ああ、今日も共に生きさせていただくことができた」という喜びを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただくことができた感激。

「落せば、今すぐにでも壊れてしまう茶碗が壊れずに今ここにある。そう気づかせていただくと、茶碗のいのちが輝いて拝めます。私たち親子のいのちもプラスチックのいのちではないのです。だからこそ、無倦の大悲(むけんのだいひ)がかけられているのです。大悲の中のいのち、今年もしっかり生きさせていただきましょう。」と締めくくられています。

あたりまえではないいのち。
おかげさまのいのち。
今年もしっかり生きさせていただきましょう。